心の傷を背負った元寮生の覚書き

心の傷を背負った元寮生の覚書き

 

心の傷を背負った元寮生の覚書き

                                     もっち

私が育った環境はとても悪かった。共働きで夜遅くになるまで帰って来ない両親のもと、家族から愛されるという経験はとても乏しかった。友達がいたが、それでも、なにか存在の不安というか、思春期独特の悩みに苦しんでいた。それを相談する相手は誰もいなかった。「思春期うつ」とでも病名が今ならつくだろうが、当時、両親が僕を連れていくのは、心療内科ではなく、ふしぎな宗教や根性で叩き直す武道の稽古だった。

心が昔から壊れてしまっていた僕でも、得意だったのは勉強だった。だからといって、初めから京大に来たわけでもない。ロザンの宇治原から言わせると「まぁまぁやね」という国立大学に進んだ。成績は全部「優」で、まぁ専攻も成績が良くないと入れないコースに進んだ。専攻の同期は、みんな向学心があって本当に頭が良くて、生徒会長みたいなやつばっかりだったから、みんなそろって公務員やいい会社に就職を決めていった。

私は、そんな生き方をしたくないと強く反発した。それで、私は、みんなが就活や公務員試験でがんばっているのをそっちのけで、喫茶店に行っては、バイト代で買った哲学書を読みふけっていた。そのときに出会ったのが、レヴィ・ストロースの『野生の思考』だった。毎日毎日、喫茶店に通っては、喫茶店が閉まるころまで読書をした。こんなに本に感動した体験は今までしたことがなかった。けど、卒業したらどうしようってなって、当時、仲の良かった大学の先生が京大出身だったから、「京大の院に行けば?」って言われて、それを真に受けて、京大の院に入った。

だが、ずーっと心の中にあった、両親に愛されなかった記憶が大学卒業後に急にフラッシュバックした。自分が自分でない感覚や、体中が重くなり、自殺衝動に駆られる。おかしいと思って、京大の保険診療所に行くと、「これは、心の傷だから、精神科に行きなさい」と言われて、恐る恐る精神科に行った。診療所に行くと、お薬を何錠か渡されて、「今は休みなさい」と医師に告げられた。すぐに休学届を書いて出した。そこから、療養生活が始まった。

何もかも忘れて、ひとまず安心したい。そのときに出会ったのが、吉田寮だった。休学している間、入寮する勇気はなかったが、ずっと食堂にいて、毛布にくるまってソファで寝ているのがなんだかすごく安心した。誰かがギターを弾いている、ピアノの音、ビリヤードをしに来る人たち。なんだか、確かにここに人が生きていて、私も「あぁ、ここにいていいんだなって」なんとなく思い始めた。そこから、心の傷を背負って生きていく、私のような人たちにとっての居場所みたいなことを研究したいと思った。そこで、ある精神障がい者の福祉施設に、自分も障がい者としてフィールドワークをはじめた。

一方、フィールドワークは楽しかったが、心の傷はまだ癒えぬままで、研究のために行ったのに、ほとんど被支援者の立場で、助けられてばかりだった。「ダメだ、なんのための研究なのか意味が分からない」。そう思いつめていると、私が吉田寮に入り浸っているのを知っていた施設の職員が、「吉田寮に入りな」とよくわからない助言をしてきた。私は、そこに何か希望があると感じて、吉田寮に入った。

そして、研究するのもダメだと思っていたので、吉田寮でまた療養生活だなと、入寮届を出しに行った。ちょうど、武漢でコロナが感染拡大しているころだった。

吉田寮に入ると、部屋割りが決まるまでは、しばらくの集団生活が始まる。哲学好きの学部生、大学卒業後もう一度京大に入って来た人、やむなく休学しまくっている人、吉田寮に住みたいという理由で聴講生になった人、真面目な官僚候補生に、法科大学院生などなど。。そこは、いい意味でまともじゃない人たちの集まりだった。みんなで、なんの哲学書を読んでいるかとかいう謎の哲学マウント大会が始まったり、今では考えられないが、鍋パを開いて、飲んでは騒いでいた。本当に楽しかった。そんな生活の中で、「論文が書けるかどうかよくわからない心の病気の大学院生」という私の否定的な感情が、消し飛んでしまうほど、みんな、それぞれの生き方に迷いながら、それでも今を一生懸命に生きていた。

その後、しばらくして、部屋割りが決まると、私は、新棟で一人部屋に移った。それでも、相も変わらず、最初に集団生活を送った友たちが、私の部屋を訪ねて、やれピザを焼こう、やれ焼き肉をやろう、やれ畑を耕そうと、やって来た。せっかく一人になれたのにと思っていた、横で、否応もなく寮の友が何かを私に頼んでくる。私も、何度か、料理を寮生のみんなにふるまった。大鍋で食べるそのご飯は、本当においしかったし、おなか一杯食べても、一人200~300円ぐらいで、食費も浮いた。

コロナ禍の中、私は、一人部屋で、政府からもらった20万円を全部、本に溶かして、本の虫になった。すると自分の研究にぴったりな本が見つかって、頓挫しかけた研究も、ゼミ発表で指導教員から絶賛されるほどのものになった。そこからは、論文暮らし。クーラーがなかったので、冷房の効いた地下で論文を書いては、煮詰まったらやめて、クーラーの効いた地下に座椅子を並べて、寝た。研究室に私の机はあったが、そこでは書かず、なんだか安心できる吉田寮で書き上げた。提出の2か月前には、初稿が出来上がって、指導教員に「よくできています」と、ほとんど手直しされずに、修士論文は完成した。

一方で、吉田寮に対して、何か貢献していたかと言われれば、自信がない。しいて言えば厚生部の清掃局に入って、会議で段取りを組んで、当日の大掃除の仕切りをやっていたぐらいだった。また、その仕切りっぷりを寮生に褒められてうれしかった。

もっと住んでいたかったが、就職先も決まり、吉田寮を去ることになってしまった。けど、なんだろうか、そんな私だっただからこそ、吉田寮があるのであり、いつでも吉田寮が私の中にはある。心の傷は癒えるかではない。むしろ、その傷でもって支え合う、というよりも、だからこそじゃれあい楽しみ、受け容れてくれる場所が、私にとっての吉田寮だ。なくなってほしくない、私の大切な場所である。

迷ってもいい、悩んでもいい、苦しみの中で支え合い、大きな愛に包まれる居場所が、コロナ禍である今だからこそ必要だと私は感じている。ようこそ吉田寮へ、おめでとう。