向島の晩鐘
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「渡邉くん、俺の大学時代の専攻はモンゴル史でな、中でもチンギス・ハーンが好きだったんや。で、俺はキンジス・ハーンってワケや。」と会って間もなく湯口真氏に言われて、渡邉が「えっそれセーフなんだ」と面食らったのは言うまでもないが、面食らったのはとりあえずカラカラ笑ってからだった。「障碍を笑い飛ばす」のか、それともアイスブレイクか、或いはそれ以外か。当事者でない彼に知る由もないが。あの時笑ったのは、駄洒落の出来に由来しているのだろうか。あれは微妙じゃあないか?むしろ、謹慎という名の決して切ってはならぬ糸を、当の本人から切断しにくるという逸脱の中に、禁忌を確信犯的に破る者に対して感じてしまう愉快さを見出したのではないか?兎にも角にも、渡邉がどう解こうか難儀している、「健常者と障碍者の間柄」という、両者の間にピンと張られたゴルディアスの結び目を、氏は宝刀「自虐ネタ」で快刀乱麻に両断したのだ。いわば、ズルい。
氏は進行性筋ジストロフィーの人である。渡邉は五月に氏の介護に入った。寮の友人に誘われてだった。当時新入寮生であった渡邉は、寮合宿で某寮生の発表の最中にビール缶を開缶して、彼に「あいつも偉くなったなあ」と眉を顰められていた。それだけに、今回の提示には「俺も(彼の中で)偉くなったなあ」としばしの感傷にひたった。
渡邉は、その半生を障碍者と接点を持たず生きてきた。ただ、小学生の時に、思い返せば恐らくは脳性麻痺であろう女性が通学路を往来していた。彼を含むグループは、下校の際に彼女を見つけると、歩き方が「変」だと囃し立てたことはよく覚えている。
神宮丸太町から京阪で丹波橋、近鉄に乗り換えて向島。渡邉は車イス住宅の扉を開けて奥の十畳ほどの居間に進む。小上がり部屋の各所には堆く積み上がるめぞん一刻や美味しんぼ、ドストエフスキー、バガボンドの壁紙、テレビでは大相撲をやっている。氏と対面する。会うや否や立て板に水の問わず語りに、渡邉は腰を抜かした。「このおっさん、さては無類の話好きだな」もっとも話をするのは彼の苦手とするところでもなく、ビートルズをBGMに盛り上がった。氏は最後に渡邉に「キミはボクの介護に入るんやな」と言った。「アレ、これもう決定事項なんだ…」と思いながらも、何か言うのも小気味よくないし、彼は「まぁまぁままぁ」とりあえずお茶を濁した。かくして月に一度の訪問介護が始まった。
湯口氏は東洋史に造詣が深く、世界史Bに毛が生えたくらいの知識量の渡邉の驕慢を粉砕した。伊達にキンジス・ハーンを名乗ってはいない。自分の電動車イスを“蒼き狼号”と命名するほどである。が、やはり特筆すべきは、氏は叩き上げの歌舞伎狂いなことである。生家は南座のすぐ近くにあり、幼少より主に祖母から歌舞伎のあらましを伝え聞いて知識を得、また長じては可能な限り南座の公演に通いつめていたという。
「やっぱり弁慶の飛び六方は八代目幸四郎が一番やわ」「吉右衛門さんの熊谷は見とかなあかん、追悼番組の熊谷陣屋は絶対録画するでェ」「二代目尾上松緑の御所の五郎蔵て声のハリがエエやろ?向かいに立つ星影土衛門役は八代目幸四郎や、二人は兄弟揃っての弁慶役者でな、こんな座頭役者が並び立ついうのはすごいことやねん!」
滔々と語る氏に圧倒され、勧められて試しに観た「浜松屋見世先の場」の、七代目尾上菊五郎演じる菊之助に魅せられる。好きが高じて年末の南座の吉例顔見世興行に赴いた渡邉は、初めて観る歌舞伎を尽く楽しんだ。歌舞伎とは、お約束の世界であり、どんでん返しというものは稀である。王道ながらも、それを舗装する有象無象の演劇装置に、渡邉は素直に感動した。正々堂々と気難しい大衆に対峙し、時にはクサいともいえるような結末を臆面もなくやってのける心意気を、彼は感じ取った。
「いやぁ、黙阿弥の割台詞はやっぱいいですねぇ」「せやろ」「稲瀬川勢揃いの場は傑作だぁ」「あの五人の勢揃い、戦隊モノの元ネタになったんかも知れんで」「三津五郎の演る佐藤忠信が好きなんですよ」次第に歌舞伎の話が双方向になってきている。
うだるような八月。「渡邉クン、そろそろ下を替えよか」ああアレね、私もねぇ覚悟はしてましたよ、いやいやむしろ待ってました!という面持ちをつくるに至る彼のその微細な表情筋の弛緩と緊張を読み取ったのだろうか、次の瞬間湯口氏は身の丈六尺精悍な体躯の青年を哄笑喝破した。「ぶっつけ本番でもええからやってもらわな色々始まらん!みんなそうしてきたんや」氏の有無を言わさぬ強気の交渉姿勢に、渡邉がシュールな面白さを感じてしまったのは揺るがぬ事実である。「あらためてこれは、対等な人間関係なんだな。」
そこから、一時間にも渡る死闘が火蓋を切って落とされたのであった。「大体拭けましたかね」「ええ感じや」……「こんな感じですかい」「いや、右にズレとる」……「こうで?」「うん」一連の動作を終える頃には、氏の腹部に、渡邉の額から滝のように流れ落ちた汗が水たまりをつくっていた。
「なあ渡邉クン、俺は今まで介護者にマズイもん食わせた覚えは一切無いからなァ」
湯口氏は自分はおろか介護者の食までもゆるがせにできない。介護者の前にも満漢全席よろしく様々な皿が卓にあがる。洗い物は増えるが、色とりどりの食器で種々の料理を彩ると心が華やぐ。一人暮らしを始めたばかりの渡邉には、これを考える余裕がなかった。そういった、氏のこころにくい気遣いが、一連の指示の根底にある。お箸が彼の実家で使っていた欅のものと同種であったのが、また彼の食事をひとしお旨く感じさせる。
湯口氏と渡邉は、介護者と自立者である。であるならば、こうした立場がただちに「歪な関係」に繋がるかというと、そんなことはない、と少なくとも渡邉は思う。なぜならば、たとえば歌舞伎において彼は氏の驥尾に付すからだ。氏はよく言う。「介護者と当事者は、適切な距離を保たねばならん、近すぎず、遠すぎず。そうせんと、関係が崩壊する。」気難しい人だと思う方もいるかもしれないが、これが成熟した距離感覚だと渡邉は思う。安直な馴れ合いは、氏の好むところではない。両岸は確かに隔たっていて、その間を渡す橋梁があり、その橋脚は、氏の障碍者としての矜持と意地からできている。
僕がこの一年で何を学んだのか分からない。歌舞伎だろうか、それもいいが、敢えて言わせて頂くのならば、「冗談って深いな」ということだ。人のコミュニケーションの重要な部分の一つは、相手の不快と感じる領域を侵犯せず、なおかつ最前線までにじり寄ろうとする努力なんじゃないか。これはきわめて高度なことだと思う。だから、関係づくりをする威力偵察として、冗談というのはある意味適しているかも、なんて思ったりする。逆に、そうしたことに鈍感だと、とんでもない失敗をしでかしてしまう。現に、僕は入寮してからも、たかがラーメン二郎や馬糞で争いの火種をつくってしまったこともある。たかが二郎や馬糞で。冗談を言いたかったら、常に綱渡りをする必要がある。でも、そうして辿り着く向こう岸というのは、けっこう達成感がある。そうだから、湯口さんの発した「キンジスハーン」の謎ダジャレは効果てきめんだったのかも、なんて思ったりする。でも考えてみれば、湯口さんの冗談は、僕との心の間合いを測る威力偵察というか、そのまま僕の謹慎塹壕に手榴弾を投擲してきたようなものだが。
「渡邉クン、キミはボクのことをころせるが、手足の動かないボクはキミのことをころせん。」仰臥の位で、湯口さんは嘯く。その顔に、卑屈なニュアンスは毫も帯びてない。それどころか泰然とした雰囲気を湛えている。五時を知らせる「夕焼け小焼け」が響き渡った。僕は腕を組んで、暫し聞き入ると、やや微笑んで返した。「まあ、そうすね。」