不穏な者を肯定する―戦争機械としてのトランス女性―
上田雅子
Twitter上でトランス女性への差別言説が横行する状況は昨年に私が吉田寮入寮パンフでこの問題について触れて以降の1年間で何も変わってない。それどころか学者や弁護士など自らの言説自体が一定の権力を帯びるという特権を有する者のなかに露骨に差別を支持する輩が次々と出てくるという段階にまで事は進んできている。左翼やフェミニストを称する人間たちもトランス女性差別の問題には非常に鈍感かつ無知であり、差別者のツイートにいいね!を付けたりリツイートすることを何らためらわず、差別者どもに大甘な態度であることは決して珍しくはない。当事者の置かれた現状と向き合い、トランス女性が抑圧されている現実を変えていく取り組みが極めて不十分な一方、当事者の生活と権利を置き去りにしてのTwitter上のくだらない論争のためにトランス女性が消費される客体とされている。
こうした状況のなかで、トランス女性差別に抗するためにTwitter上ではさまざまな反論が試みられている訳だが、私は対抗言説に関しても非常に違和感を覚えることが実に多い。それはなぜか?トランス女性を既存の社会の枠組みを揺るがさない、言い換えれば、トランスジェンダーの人間に対してマジョリティであるシスジェンダーの人間の安心・安全・快適を脅かすことのない無害で清潔な存在としてトランス女性当事者たちが描き出されていることが非常によく目立つからである。
トランス女性の女性専用スペース利用の問題がTwitter上ではよくヘイターたちによって取り上げられる。その際によく言われるのは、トランス女性が自分の性別を法律・制度の面できちんと尊重され、その性別に属する人間の持つ権利を当たり前に行使出来るようになると、外見上男性にしか見えない人物が女子トイレに入ってくる、あるいは性別適合手術を受けていない当事者が銭湯の女湯に入ろうとする、という類の言説で、ヘイターたちはそれを根拠にトランス女性とシス女性との間での区別と称しての差別を正当化しようとする。これに対してカウンター側は、トランス女性は自分の身体に色々な違和感を感じていたりするので、人前で裸をさらすことには非常に慎重だから、ペニスを切除していないトランス女性が女湯に入ろうとすることはあり得ない、とかパス度に自信のないトランス女性はトラブルを避けるために女子トイレは使わない、ということが言われる。このこと自体については当事者である私自身の経験からしてもそのことが全くの的外れだとは思わない。しかし、問題なのは、その種の対抗言説でもってマジョリティの安心を勝ち取ろうということが行われている背後にある権力関係の不均衡であり、また、対抗言説が生み出すトランス女性内部の分断である。
そもそも、マイノリティが自分たちの権利を当たり前に行使出来るようになるためにマジョリティに色々と言葉を尽くして、理解と承認を求めないといけない、当事者の置かれた現状に無知でかつ悪意のある差別主義者どもに気兼ねを強いられるということが何よりも差別構造そのものである。当事者でないマジョリティが丁寧に言葉を尽くして他のマジョリティを教育するのは当然なされてしかるべきことだが、マイノリティが自分たちの存在をマジョリティに認めてもらおうと腐心することを強いられること自体が不当なのである。マイノリティの側からの声は怒りと実力行使のみで何ら構わないし、むしろマジョリティの目を覚まさせるためにも容赦のない鉄槌が加えられてしかるべきなのである。だが、昨今のTwittet上での対抗言説はマジョリティへの理解を求めていくことを当事者が強いられること自体を問題とするものが非常に足りていないように思える。むしろ、マジョリティを安心させる「良いトランス女性」が対抗言説のなかで語られている。
「良いトランス女性」像が作られる過程で、その範疇に入らないトランス女性は不可視化され排除される。銭湯や温泉を利用したいが、トラブルを恐れて利用出来ない、あるいは敢えて利用する権利を主張する性別適合手術を受けていないトランス女性やパス度が低いために女子トイレを利用する際にトラブルに見舞われるトランス女性の置かれた状況が捨て置かれてしまうのである。そもそも、差別主義者は攻撃しやすい所、すなわち、マイノリティのなかでも周縁化された層をターゲットに絞る。パス度が低かったり、性別適合手術を受けていなかったりする当事者が女性専用スペースに侵入するプレデターとして描き出されていく。ならばそれに対抗する言説は周縁化されたマイノリティの権利擁護に立ち、当たり前の権利をいちいち言葉を尽くして了解を得られないと行使が出来ない、権利承認の主導権がマジョリティの側に握られている今の現実それ自体を叩き壊すものでないといけないはずである。
ヘイターたちはトランス女性を女性専用スペースに侵入するプレデターとして悪魔化する。こちらから言うことは、プレデター上等、マジョリティどもの安心・安全・快適を脅かし、奴らの居場所を奪うのだ、これである。そうでなければ、マジョリティにとって都合の良いマイノリティとそうでないマイノリティとの選別による当事者の分断が進んでいくであろう。
近年、盛んにダイバーシティということが言われる。多様性と他者への寛容、異文化の共生が語られる。しかし、その綺麗事の裏にあるのは、政府や自治体、企業にとって役に立つマイノリティのみを優遇し、差別社会の現実を隠蔽することである。公の場で語られる多様性・他者への寛容・異文化との共生の重要性というものの背後には資本にとっての利益のためという暗黙の前提が存在する。そして、そこで語られる多様性とは、差別主義者どもを排除しない多様性のことであり、他者への寛容に、差別主義者どもへの寛容さが含まれ、異文化との共生の重要性には、差別的な文化との共生の重要性が含まれる。差別社会の現実を変革するには、差別を再生産するさまざまな社会の仕組みを変え、差別主義者を必要に応じて糾弾し、然るべくオトシマエを付けさせることが必須である。だが、昨今のダイバーシティなるものではそこが意図的に捨象され、ブルジョワ社会の延命のためにさまざまなマイノリティを包摂されようとしている。
トランス女性が資本主義社会における公理系としての多様性の原則でもって包摂され、分断されていくのに抗するには、マジョリティから見て不穏な存在としてのトランス女性を全面的に肯定しなければならない。すなわち、およそ典型的な女性の外見に見えないながらも女子トイレを使う当事者、ペニスの付いた身体のまま女湯を使う当事者、侮蔑やあざけりの視線や言動に対して実力で立ち向かう当事者、そのような存在をこそ肯定しなければならない。我々は女性専用スペースをさまよう幽霊であることを引き受けなければならない。そのことがマジョリティに与える不安と恐怖こそが差別社会のなかで生じる亀裂であり、抑圧的な社会の仕組みを叩き壊す戦争機械としてのトランス女性が現出してくるのも、その裂け目からなのである。