mearythindong
〇京都大学は、ジェンダー比率が極端に偏った大学です。2021年度の学部生数は男子10,142人、女子2,896人、大学院生数は男子6,781人、女子2,796人となっており、学生の女子率はおよそ4分の1です。歴代総長は全て男性、大学法人の最高意思決定機関である役員会も男性9人に対し女性が2人。この近年で特異的に偏りがある訳ではなく、これまでにジェンダーの不均衡を無くす取り組みが積み重ねられ、少しずつ改善して来た結果としての現状です(数字は全て京都大学の公式サイトから。なお、これらの数字は男女二元論を前提として当局が集計したものであり、ノンバイナリーを含むトランスジェンダーの構成員が正確に反映されていない可能性があります)。ここまで極端なジェンダー比率の空間は、想像に難くなく男性中心主義です。入学以来私は、授業、サークル、研究室、バイト先(京大の学生が多かった)などで、ことごとく「女」扱いされる状況にウンザリしていました。新入生「女子」に対する上回生の“乱獲”行為(そして「誰がどのランクの女子を落とすか」という競争で盛り上がる)、「職場の環境を良くしたいから」と「女性代表」として意見を求められ(そしてよくある偏見的な「フェミニズム」に対する愚痴を聞かされ同意を求められる)、授業では男性教員が「女子」に見える学生に対して異性愛者だと決め付け「結婚するならこういう男性がいいよね?」と問い掛け(そして授業内の息抜きとして同調的に上がる笑い声)。日常的に横行するこれらの文化に苛立っていた私は、ある年に学祭の「ミスコン」への反対行動に参加しました。すると、周りの人達からバッシングの嵐…。心身共に疲れ果て、少しでも安住したいという思いから、翌年吉田寮に入寮しました。当時、吉田寮生の中に「ミスコン反対」の立場を掲げていた人が何人かいたのです。
入寮してみると、しかしそこはやはり京大の一部で、十分に男性中心主義がありました。ただ助けられたのは、寮には「話し合いを大切にし、トラブルは当事者間で解決する」という理念があった事です。「女性」が受ける差別や抑圧を訴えようとすると「気のせい」「感情的」と言われ取り合ってもらえなかったり、そもそも発言の機会が無かったりします。男性中心主義の世界でサバイブする「女性」達からも、「そんな事言うのやめとこうよ」「ワガママだと思われるよ」といった“忠告”を受ける事は珍しくありません。これが社会のデフォルトですが、「話し合い」と「当事者間解決」を大事にしている場所では、意見を言う権利が暗に認められていて当事者として尊重してもらえます。たとえ相手が「(女/)性差別」に鈍感であったとしても、意見を聞く相手として扱われるだけで格段に話しやすさが違うのです。この理念の存在が、入寮資格枠の拡大が寮内で取り組まれ実現していった事とも関係していると思います。
私が入寮して2年目、セクハラやその土壌である男性・シスヘテロ中心主義(注1)を問題化する有志の寮内委員会が立ち上がりました。「女性に見える人が攻撃されやすいのはどうして?」「見た目で人の性別やセクシュアリティを決め付けるのはセクハラでは?」など議論をし、勉強会や茶話会を開催しました。
この活動において私達が選んだのは、裁判や処分の代行ではなく、被害者が孤立せず闘えるようなサポートと、セクハラが起きにくくなるよう性差別・ハラスメントの構造について言語化し寮自治にフィードバックし続ける事でした。被害当事者を置き去りにしたまま、周囲が先行して問題化する事で、結果的に被害者の主体性やペースを蔑ろにし追い詰めてしまう事を恐れていました。また、私達自身も、加害者になってしまう可能性がある事(一般的に、女性差別の被害者であってもシス女性はトランス差別に鈍感であるし、同性愛差別の被害者であっても男性は女性差別に鈍感)を考え、常に立ち止まり、自身が気付いていない差別構造にも敏感になろうと呼び掛けていました。
こういったアプローチを私達が選択した背景には、当局が設置した現行の「ハラスメント相談窓口」体制に対する不信感もありました。大学公式サイトでは、「ハラスメントを受けた場合」に「一人で我慢せず」「ことばと態度で(中略)はっきりと相手に伝えましょう。無視したり受け流したりしているだけでは、状況は少しも改善されません」のように、被害者にさらなる負担を強いる記述や、加害者に甘く見える記述が並んでいます。相談窓口と法務コンプライアンスが一体化されてしまったため、性差別やハラスメント問題についての専門性よりも裁判対策などを重視した設計で、実際に相談窓口を利用した学生が「加害者も反省しているからもう終わりにして」とか「理事や総長によるハラスメントは公平に裁けません」とか言われたという話が跡を絶ちません。セクハラへの対応は、1つの窓口に全て委ねるのではなく、コミュニティ全体で向き合える人びとを増やしていき、網の目のように仲間と問題提起を増やしていく事が、最も重要だと考えたのです。
もう一つ、私が入寮した頃に寮内であった大きな取り組みは、新しく建てられる寮棟のトイレをオールジェンダー化する事でした。そのため、性別を問わず使え、覗きなどの性暴力を防ぐよう完全個室、全ての個室内に洗面台を置く設計を、当局との交渉において寮自治会から提案しました。私はこれを、公共性の問題であると捉えました。誰もが日常的に必要とするトイレは、ノンバイナリー(注2)や性別移行中のトランスジェンダーの人達も含め、ストレス無くアクセスする権利があります。また、頻発するトイレでの性暴力も防ぐ構造でないといけない。実際に当局も交渉において「性暴力を防ぐために男女別のトイレでないと認められない」と主張して来ましたが、現に男女別のトイレでも性暴力は起きています。京大の「女子トイレ」によくある「不審者が目撃されました」という張り紙には二つ問題があり、「性別分けトイレでも性暴力を防げていない可能性」と「見た目によってそのトイレから排除すべき人を決め付けている可能性」の両方が示唆されています。見た目で「女」だの「男」だの決め付けられ、不当に抑圧されたり優遇されたりする事に反対していた私にとっても、「不要な性別分けを無くし、実効的な性暴力対策を提示する」この方針は魅力的でした。それに「同性間であれば性的な眼差しが生じない」という前提は、同性を性的対象とする人びとを不在として扱っている点で抑圧的です(これは「同性愛者が同性に性暴力を働く」といった同性愛差別の言辞に与するものではありません。そうではなくて、「その空間には異性愛者しか存在しない」という前提を持つ事が同性愛排除的で問題があると考えます)。吉田寮は、入寮にあたって性別要件もセクシュアリティ要件もありませんので、あらゆる性別、あらゆるセクシュアリティを生きる人びとが、共に寮生として生活している可能性を考え、性差別的、抑圧的でない空間を作っていきたいのです。
このように、吉田寮での自治の経験は、(女/)性差別に抵抗する私の主体形成に大きく影響しました。悲しい事に、現在の京大当局はこういった学生自らが寮内においてフェミニズムを実践する空間を含めて丸ごと、全寮生を追い出す事で解体しようとしています。吉田寮が消失した後の京大で、共にフェミニズムに取り組む仲間と出会えるか、大きく不安があります。私がまだ希望を捨てられない寮自治を奪われないように、今日も闘い続けています。
(注1)シスヘテロ中心主義…出生時に制度的に割り振られた性別のまま生きている人を指す「シスジェンダー」、性愛の対象を異性のみとする人を指す「ヘテロセクシュアル」という、この社会の支配的な性の在り方があたかも自明であるかのように当然視する考え方。
(注2)ノンバイナリー…性別は「女」「男」のどちらか一つだけではないとする生き方、特にこの文脈では自身の性別を男女二元論的な「女」「男」のどちらかではないとして生きている人のこと。
(ウィメンズカウンセリング京都発行「WCKニュース 第95号」(2020年7月号)掲載記事より
「吉田寮パンフレット2022」掲載にあたって大幅改訂)