僕の恢復について
文責:Aya
作者注:この文章は、文学フリマ京都に吉田寮広報室が出店した際配布した文集に掲載されたものと同一の内容であり、そのためかいささか全体として長ったらしく、入試に疲れた(あるいは今まさに入試に向けて勉強しつつある)受験生にとっては読み通しづらいものであることであろうと思われる。大変心苦しいのだが、手が空いた、あるいはどうにかして目の前の入試二日目なり合格発表なりから気を逸らしたいときにでも読んでいただきたい。
記事を書く、ということは想像以上に難しかった。僕は文章を書くようにしか自分の中で言葉を組み立てられないという悪癖を有しており、そのために日常会話であっても言葉に詰まることが多いのだが、それはどうやら文章であれば流暢に書けるということではないようで、特に受験期以来読書の習慣がなくなってしまった僕にとってある程度の分量のある文章を書くということは自分で思っていた以上に難題であった。結果として以下に書き綴る文章は僕にとって一番身近な存在、つまり自分自身についての記述が大半を占めることになった。当然のことながらこの冊子は京大吉田寮についてのものであるので、僕にとって吉田寮とはどういう存在であるのかについても若干の言及はあるが、それはそれとしてやはり所謂「自分語り」が目についてしまう点についてはどうかご寛恕いただきたい。
さて、僕は結構思い込みが激しいというか、影響されやすいタイプだと自認している。小学生のころ、祖母に「魔女が住んでいる」と冗談交じりに脅されたアパートが見える範囲には高校生になっても行きたくなかったほどだ。真偽を問わず、受け取ったものをそのまま自分に刷り込んでしまうという悪癖。この記事の出発点はそのことについてだ。
話は変わるが、僕の大学受験はひどいものだった。当時の僕は「大学」という場所へ行けば何かが変わり、自分の好きなこと(それが何であるかも曖昧だったのだが)だけをしていても許され、全てが自由になるものだと思い込んでいた。自分より頭のいい人間に囲まれ、日々新たな価値観と出会い、自らを研磨することができるのだと本気で信じていたのだ。しかし、だからと言って全身全霊で受験勉強に精を出したわけではない。むしろ逆だ。僕ほど怠惰な受験生もそうはいなかったのではないかと思う。一年目を自分のことを天才だと思い込んで無為にし(これは実話だ。高校3年生当時の僕は底知れず自惚れており、あろうことか自分の嫌いなことについて勉強などせずとも受験など乗り切れるものだと思っていた)、浪人して経験した二年目にしてようやく僅かなりとも「勉強」という営みを自主的に行うようになった。それにしたって自堕落な生活、オンライン麻雀やネット小説漁り、そしてVTuber(これはVirtual YouTuberの略称であり、主に多種多様なアバターを用いて動画配信を行うクリエイターのことを指す)の配信視聴の合間に行っただけだ。なまじ努力せずとも英語ができてしまったのが良くなかったのだろう。僕は8歳になるまで海外に住んでいた。その頃の経験のために、僕は英語が問題なく読み書きできる(そのせいで今は初めての「外国語」であるドイツ語の学習に苦慮しているのだが、それはまた別の話だ)。ともかく、僕は可能な限り苦労せず、努力せず、目的を達しようとした。当然ながらそんなことは不可能だった。一年目はもちろん、二年目に至ってもなお怠惰を捨てきれなかった僕は、だから代わりに別のものを捨てることにした。
他人の苦痛、他人の不平等、他人の悪、他人の地獄。世界はどうやら悪や不善に満ちていて、僕はどうにもそういうことについて考え込んでしまう性質を持っていたらしかった。今日もどこかで誰かが飢えていて、どこかで誰かが病に侵されていて、どこかで誰かが死んでいて、それなのに僕は不自由なく生きている、とか、おおむねそんな内容の悩み事が、どこからともなく降ってくる時期が僕にはあった。しまいには目に映るすべてが物悲しく見え、喉元にせりあがるような苦しみに四六時中耐えねばならなくなっていた。考え込むだけで他には何もしないというのがいかにも幼稚で微笑ましく、伝聞の話について(こうした悩みについて、何か実際に体験した出来事が契機になったわけではない。単になんとなく、伝え聞いた他人の苦境と自分の環境を引き比べてみてその差について思い悩んでいただけだ)そこまで思い悩めるのはいっそ傑作ですらあるのだが、問題は一度そういう状態に陥ってしまうとそれ以降その気分が去っていくまで作業やら何やらに一切手が付けられなくなってしまうことだった。浪人した結果自分の手に余るほどの暇な時間に晒されていた当時の僕は、次第にその深みに嵌り始めていた。上に書いたような悩み事が食事中、勉強中、ただぼんやりしている最中、突如として襲い掛かってくるようになっていた。そのたびに僕は頭を抱え、唸り声を発し、じっとうずくまって悲しみと痛みとその他雑多な感情が混然一体となった波が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。そんなわけだから、僕にとって喫緊の問題はこの感情の塊を何とかすることだった。
そこで、僕はそれらがどうでもいいことであるかのように振舞うことにした。それはいつまで経ってもそうしたことについて考えてしまう自分を矯正して目の前のタスクに向かわせるためでもあったし、単にそれらについて考えるときに生じる独特の苦しみが減退することを期待しての事でもあった。
効果は期待以上だった。
僕が影響されやすいというのはさっきも書いたが、どうもそれは他人から受け取った情報に限らないようだった。というのも、感情の波が来るたびに自分に「どうでもいい」と言い聞かせているうちに、僕はいつの間にか本気でそれを信じるようになっていたのだ。一度そうなってしまえばあとは楽だった。どうでもいいことに時間を使うのは馬鹿らしいというのは当然のことだ。結果として、僕は自分に直接関係のない(と少しでも思えるような)事柄を「どうでもいい」と切り離すことに成功した。成功してしまったのだ。
先ほど「捨てる」と書いた通り、僕は(大雑把に言えば)他人というものを捨てた。もちろん、如何に僕が影響されやすいと言ってもそれは念じただけで他人への関心を完全に失わせるほどではなく、ここで言う「捨てた」とは単に「自分に直接関係のない見知らぬ他人に対する憐憫や同情、共感を失った」という程度の意味である(そのためこの変化はむしろ正常化とすら言えるかもしれない)のだが、なんにせよ僕は当初の目的を達成し、余分な思考を挟むことなく生活することができるようになった。
問題はすぐに現れた。茫漠とした、無人の景色を想像してほしい。そこには潤いがなく、熱がなく、そして他人がいない。僕が立っていたのはそのような場所であった。英語には「find oneself in a place(自分がどこかにいることを発見する)」という表現があるが、まさにそのような心境であった。何が起こったのかと自分に問えば、答えは簡単。どうやらそれまで僕は「他人」を原動力として駆動していたらしく、それをどうでもいいと切り捨ててしまえばあとに残るのは空っぽの自分自身だけだったのだ。他人を原動力にする、と言っても、そこまで大層なことではない。「他人にどう見られるか」「他人にどう思われるか」、そういった事柄が多少なりとも生活に影響を与えた経験は誰しも持っているだろう。僕の場合、心の内に「他人」の占める割合がほんの少し人より多かったのだと思う。
ともかく、僕は原動力を失った。正確に言うなら、自分に直接関係のないことについて「どうでもいい」と思うよう自分の価値観を改造してしまったせいで、本当に基礎的な動作(例えば空腹や眠気の解消など、苦痛に由来するもの)以外について遂行する気力が起きなくなってしまったのである。立ち上がることすら億劫で、ただ布団から起きるのにさえ1時間かかる、そんな生活がしばらく続いた。両親はそんな僕を見かねて、何度かカウンセリングを受けるよう勧めてくれたのだが、その厚意さえ僕は無下にする他なかった。「自分を改善しよう」という熱量さえぼんやりとしたものにしぼんでしまった僕にとって、カウンセラーに自分の心情を打ち明けるということは「どうでもいい」ことの筆頭であった。口を開いても何も出てこないのだからどうしようもない。
あらゆる活力を失っていた僕は、必然的に「自分で何かを決める」ことができなくなっていた(もちろんのことながら、それで生きていける環境に置かれていたということはひたすらに幸運だった)。目の前の景色を眺めるだけで、過ぎ去っていく日々を眺めているだけで、何もできずにただただ生きていく。そのことについて軽い絶望感はあったものの、どうにかしようという意志はついぞ現れなかった。意志そのものが挫けていたのだから、当然と言えば当然だ。
別に死にたいわけではないが、だからといって生きたいわけでもない。そういう自分勝手な無気力の只中にいた僕は、それでも受験勉強はやめなかった。理由はよくわからない。当時世間で取り沙汰されていた新型コロナウイルス感染症の流行のために予備校の講義がオンラインで受講可能であったことが影響したのかもしれないし、あるいは単に自分の将来について考えることが面倒なあまり惰性のまま生きることを選んだのかもしれない。なんにせよ僕は勉強をやめず、それが結果的に僕の人生を大きく動かす選択につながった。京大吉田寮への入寮である。
高校生の頃京都大学を受験したことに、さほど深い意味はなかった。「変人がいる」らしいという風評、当時読み齧っていた九鬼周造の属する「京都学派」の活動拠点だったらしいという伝聞、そしてどうやら同級生も受けるらしいという噂。それらが綯い交ぜになった結果、僕はいつの間にか自分の住んでいた東京にある東大ではなく、わざわざ遠方にある京大を受ける気になっていた。一度落ちても、なんとなく「京大に行きたい」という気持ちは残っていた。今になって思えば、現役で受かった同級生への劣等感や落ちたことへの悔しさ以上に、ただ惰性で物事を決めていたのだろう。靄がかってよくわからない未来の話であっても、かつて自分が目指したのだからそこから外れるのは億劫だ、という風に。
輝かしいものであるはずの大学生活を想像するとき、そこには寮という場所が伴っていた。吉田寮という名前こそ知らなかったが、両親ともある大学の寮に住んでいたことがあったため、寮生活・共同生活についての好意的な意見は子供の頃から聞いていたし、いつか自分も寮という場所に住んでみたいという憧れのようなものはあった。どうせ東京から通うことはできなかったから一人暮らしか寮住まいにならざるを得ず、そうであるなら寮に入るという選択は自分にとって自然なものであった。最後の決め手は、既に京大に入っており吉田寮へ入寮していた元同級生の、寮について話す際の楽しそうな様子だった。「他人」という存在が介在する生活、それについてまくしたてるように話す友人に、薄っすらとあった「このままでは駄目だ」という感情が揺り起されたのだと思う。
京大の入試に合格したと知ったとき、真っ先に(受験票を失くしていたので受験番号を電話口で確認するなどひと悶着あったのちに)したのは、受験当日にもらった吉田寮の受験生用パンフレットのページを繰ることだった。楽しみだった。浮かれていた。久しぶりの感覚だった。
吉田寮に入って、大きく変わったのは他人だった。それまでの生活では家族を含め数人程度しか顔を合せなかった他人が、今や当たり前のように数多く生活の中にいる。顔と名前の一致していない人と、日常的に同じ部屋で寝て、会話して、時には作った料理を分けたりもする。この新しい生活は戸惑い以上に、僕に一つの気づきをもたらした。今手元にある全てがどうでもいいのであれば、まずは多くの他人、多くの見知らぬ価値に触れ、それを精査すればよい。そうすれば自ずと、自分というものの輪郭が浮き出てくるだろう。そういう気付きである。
以降、僕は寮の自治活動に精力的に加わるようになった。それはそうすればより多くの人と関われるということもあったし、単純に「自分も加わった場で自分の生活に関することを決める」という事態が物珍しかったという理由もあった。様々な委員会、会議体、部局に参加し、方々で仕事を請け負った。おかげで今ではそれなりに他人と知り合うことができ、またそれなりにこの生活を楽しむこともできている。自治という場、自治という営みを通して、自分のことを自分で決めるということも多少なりともできるようになってきた。自分がどういう人間なのかはまだわからず、世の中の大半の出来事はいまだにどうでもいいが、それでも少しずつ「自分に関係のあること」の範囲は広がっている。総評して、僕は吉田寮に入ってよかったと思っている。
僕にとって、吉田寮は(陳腐で安っぽく、使い古された表現ではあるが)出会いの場である。他人との出会い、未知との出会い、そしてそれらを通した自分との出会い。それらが得られたのは、ひとえに吉田寮という場所が「開かれている」からだと思う。それは社会に、様々な人に対して開かれているということでも、他人と出会い、話し合う機会に開かれているということでもある。ここでは他人といつでも出会うことができ、そして自分で何をすべきか決められる。ダラダラと書き続けた文章の結論らしきものを述べると、恐らくそれこそが僕に必要だったものであり、それこそが吉田寮の価値なのだと思う。