自分自身を表現すること/平和で民主的な空間の創造

自分自身を表現すること/平和で民主的な空間の創造

自分自身を表現すること/平和で民主的な空間の創造

mearythindong

 19歳で実家を離れて早云年…。入学当初は寮外生として関わっていた吉田寮に入寮し、吉田寮生としての生活を送るようになってからも結構な月日が経つ。心身共にたくましくもなく、実家からの経済的支援も全く無い自分が、京都大学で学生生活を送り続けられているのは、吉田寮が自治寮であるが故の「力」に支えられているお陰だと言っても過言ではない。この記事では、私が吉田寮に関わり住んで来た中で恩恵を受けてきた吉田寮の自治が持つ「力」について、私個人の経験に基づきながら話したい。吉田寮への入寮を検討している人にとって、また様々な事情があって入寮はできないけれど吉田寮に興味があるという人が吉田寮に訪れ経験を共有できるきっかけになれば嬉しい。

 自治とは、端的には「自分達のことは自分達で決めること」だと説明されることが多い。自分達のことを自分達で決めるからこそ、自分達が決めたことにも自分達で責任を取ることになるし、またそれが可能になる。「自分達のことは自分達で決める」とは何か。「自分達」という集団の意思決定を行うには、突き詰めていくと、集団を構成する一人ひとりが、「自分のことは自分で決める。自分で決めたことの責任を取る」ことが必要となり、自治空間においてはその取り組みが絶え間なく集積されているのだと思う。

 「自分のことを自分で決める」というのは、実はあまり簡単でも普遍的でもない。たとえば、予め社会構造の中で役割を付与されていて(例えば「女」役・「男」役など)、その役割の範疇で振舞うよう誘導されるし、役割を引き受ける方が他者との摩擦が少なかったり、多少不満があったとしても「自分で選び決めた振舞いではないからこそ、自分で責任を取る必要もない」と逃避しやすくもなる。それに、自分のことについてさえ、自分で考えて決定できる程の十分な情報や時間が与えられていないことが多い。こういう縛られた状況下で、不満があったり納得していない行動をする時に、「だってこうするのが『常識』だから」という魔法の言葉で理屈付けをしてしまいたくなる。「常識」に則ってさえいれば、仮に自分が何かやらかしたとしても、「常識」の範疇で振舞っただけなのだから、自分から行為の理由を説明したり、他者の合意を得たりする必要もない!

 もちろん、共同生活においてはこんな言い訳は通用しない。「常識だから」「当然そうだから」「●●さん(なんか偉い感じの人)がこう言ってたから」という言い訳は、自分の行為や意向の理由として、他人を説得する力を持たない。「自分はどうしたいか、なぜそうしたいのか」「自分は相手にどうして欲しいのか、なぜそうして欲しいのか」について、自分の責任で言葉にし、相手と意思疎通をし、合意形成をする。自分が考えるために必要な情報と時間を自分で獲得しに行く。そして、自分が必要とする情報と時間は、相手にとっても必要な資源であることを痛感する。自分の判断で、自分の意思、利害、欲求について言語化し、時間を共有しながら、他者と利害調整をする。このような一人ひとりの自治の積み重ねとして、集団としての「寮自治」が初めて実態化するのだろう。

 自分の意思、利害、欲求を表現するのは、私にとってあまり容易なことではなかった。思い返せば、私が親家族から受けてきた教育は「自分の意思や欲求を表明しないこと」「相手に反論しないこと」「当然そうなっている(ということになっている)世の中の常識について、理屈をこねて批判しないこと」「思考しないこと」というものであった。私の親家族もそういう教育を受けてきたからなのか、ド田舎という環境がそうだったのか、「娘」に対する女性ジェンダー教育が一般的にそういうもの(反論しない、意思を持たない、思考せずにただひたすら指示に従い、他者に生存を守ってもらう「良い嫁」を作り出す目的で為される教育)なのか、これら全ての要因によるものである気がする。このような呪縛を一つひとつ解いていくのは簡単なことではなかったし、今でも完全に解放されているとは言えないだろうが、19歳で初めて親元から離れて自分の力で生きていかなければならなくなった時、吉田寮というたくさんの他者が共同生活をしている環境と、寮自治の文化によって、随分と「自分自身を表現する」ことができるようになったなぁと思う(ちなみに、親は一生私を養い続けるような経済力は到底持っていなかったのでさっさと嫁に行って養い手を見つけて欲しかったらしく、「行き遅れるから」という理由で私の院進学に反対していました。それはそれで一貫してて面白いですよね(?))。論理的に説明できてるとかそういうことは置いておいて、自分は何が好きで何が嫌いか、何をしたくて何をしたくないか、何をして欲しくて何をして欲しくないか、そういうことを率直に正直に表現するのは、自分が後悔しないためでもあるし、相手が考えるために必要な情報を開示するということでもある。この取り組みこそ、相手と対等で誠実な関係を築くための第一歩であることを、生活の中で学んできた。

 そして、自治寮である吉田寮は、かなり「平和で民主的」な状況に近いと感じている。これは、「寮内に全く争いが無く、みんな仲良しこよしで、同じ方向を向いて一致団結している」という意味ではない。実際の所、吉田寮内には、小規模な「争い」が日常的に起こっている状態である。「誰々の部屋がうるさい」「いやお前もうるさい」とか「誰々の言い分が気に入らない」「いやお前も大概」とか「〇月×日にこの部屋を使いたい」「いや自分も使いたい」とか、そういう感じ。環境も文化も違う中で育って来た者同士が一緒にいるというのは、それだけで嗜好や利害が衝突するのは当たり前だし、有限な空間資源の中で優先順位が異なるのも自然なことだ。大切なのは、このように嗜好や利害がそれぞれに異なる集団の中で、鬱憤を溜め込んで増幅させる前に、小さくコツコツと衝突して、自分を表現したり、異なる意見を聞いて検討したりしていくことだと思う。「争い」というとそれだけで「対立していて、いがみ合っていて、悪いこと」だと捉えられてしまうかもしれない。けれど、一見「全く争いが無く、みんな仲良しこよしで、同じ方向を向いて一致団結している」という状態は、集団内の少数派が抑圧されているだけなのかもしれない(そしてそういう多くの事例が歴史的に明らかになってきた)。少数意見が抑圧され、異論を唱えられないからこそ達成された見せかけの「争いの無さ」ではなく、小規模な「争い」の頻出によってこそ、集団内の権力は分散され、結果的に集団が平和で民主的な状態で有り得るのではないだろうか。

 自分の判断と責任で自分自身を表現することで初めて、相手と対等で誠実な関係を築けるようになること。平和で民主的な空間とは、「争いが無いように見える空間」ではなく「小規模な争いが頻発することで権力が分散している空間」であること。意見や利害が異なっていても、仲良くなくても、人と人は一緒にいられること。吉田寮において、こういった実践を体験することができ、これらの価値を実感できたことが、私が生き延びるための最も大きな「力」となっている。

OMAKEー平和で民主的な大学の創造のためにー

 自分自身の在り方について考えていれば、自分の住んでいる吉田寮の在り方について考えることにもなる。自分の住んでいる吉田寮の在り方について考えていれば、自分の通っている京都大学の在り方について考えることにもなる。自分の通っている京都大学の在り方について考えることとは、京都大学が存在する社会の在り方について、教育について、政治について考えることと切っても切り離せない。

 この数年間の京大当局による吉田寮の自治に対する破壊攻撃は、ここまで私が述べてきた吉田寮の自治が持つ「力」と価値を否定したいという欲望の権力的発露であった。自治の価値と力を否定する京都大学は、自分達の在り方を自己点検する機会を失い、自分の在り方・志向性を「普遍的で絶対的に正しいもの」だと誤解しやすくなる。そして、「真理を探求する」という大義名分を掲げる大学という装置はいっそうその権威に飲み込まれやすい。大学の持つ発言力や影響力が強い(ということになっている)社会を私達は生きているからこそ、大学の在り方を少数の執行部だけに決めさせるという権力関係に従うという形で執行部の独裁構造に加担するのではなく、自治を実践する機会を呼び掛け、創出し続けていきたい。