途中参加

途中参加

 

 

途中参加

文責:業務用ツインクル

私は伊坂幸太郎作品だと「アヒルと鴨のコインロッカー」が一番好きだ。主人公が物語の途中から参加するところとか。

私も自分が吉田寮の途中参加者であることをときどき思い出す。たとえば先に入寮した友達が楽しそうに自分の知らない元寮生の思い出を話すときや、よく見かけるけど話したことのない人が自分の部屋に以前住んでいたことを知るとき、2018年の日付の退舎期限のビラが壁に残っているのを見るときに。

私は2020年春に入寮したので、退去期限で入寮募集が停止されていたら入寮できなかったことになる。寮がなかったら京大にも進学できなかったかもしれない。親からは金銭的な理由で関東外の大学に進学させられないと言われていたのだ。いま私が苦労なく京大生でいられるのは当時の入寮選考委員が入寮募集をするという選択を紙一重でしてくれたおかげ。ありがと

みたいな話をこの前なんとなくした相手がその当時の入寮選考委員だったことがわかり若干恥ずかしかった。敬語を使わないから在寮年数や年齢の認識があいまいで、誰がいつ入寮していつ自治に大きく関わっていたのかとか、聞かないとわからないのだ。こういう時に自分がいなかった頃の吉田寮を少し想像してみる。三段ベッドがない旧印とか一回生の何某とか。

自治に興味を持つきっかけについて少し書くと、私は高校時代は山岳部だったんだけど、さあ明日は新入生に部活紹介をするぞという段になっていきなり学校の都合で一年間の山行禁止を言い渡されたことがあった。そのときは校長に直談判したり嘆願書を集めたりして何とかなったのだけど、それまで私は学校は子どものために作られたもので、自分たちがやりたいことをやれるように背中を押してくれるものとぼんやり信じこんでいたから、急に先生たちが表情の乏しい顔で「もう決まったことだ」と繰り返して話に応じてくれなかったのがわりとショックだった。まあ未成年の集団に責任をもつのって本当に大変だろうし、学校側がただ悪いという話じゃなく、利害が違っていたんだろう。

大学だって日本は最初「(国の)役に立つ人間」を養成するために国が作ったんだから隙あらば国や企業の利害に引き寄せられていくのもさもありなんというか、いやそこはがんばってほしいけど、大学の学問の自由も自治権も維持するのにはそれなりに大きなコストがかかる。何も言わずに自由だけ享受するのは無理なのだ。与えてもらう自由は向こうの都合ですぐになくなってしまう。「自由の学風」ってホームページとかに書いてるけど、自分で言うことじゃないのでは。あと「京大は、おもろい。」

…? 自分で言うことじゃないのでは。

今でも毎年吉田寮には何人も入寮してくるし、新棟に住んでいる人も受付や旧印や食堂に集まってくる。漆喰のはがれかけた古い壁のむこうから新しい声がする。全巻そろってない漫画、明らかに数年以上放置された酒瓶、臼、初心者マーク、落書きされた炊飯器、ぼろぼろの箱のボードゲーム、5年前の履修の手引き、なんか作りかけの…何だこれ。私はこういう雑然としたところも好きなのだ。ハリーポッターで言うと必要の部屋みたいな。それはそれとしてゴミを放置するな

現棟を見渡せば私や友達やいろんな寮生がおもしろおかしく過ごす日々がそこかしこに紐づいているように思う。私が寮を出たあとに、ここで暮らした思い出は私の背中を押してくれるだろうか。それとも私を絶望させるだろうか。今はまだわからない。

とにかく今は一刻も早くこの記事を書き上げなくちゃいけないんだよな。そしたら原本を作って輪転(印刷)してビラを作って貼って買い出しして演劇の練習に参加して輪転して会議して輪転して大掃除してサッカーして輪転します。締め切りについては本当にごめんなさい。当分寝れなそう。だけど好きでやってるから……ご飯はしっかり食べてるから大丈夫だよお母さん

忙しいけど楽しいなあ

こんなに楽しいのはいつぶりかなあ

昨日ぶりです