寮外生のひとりから見えている吉田寮

寮外生のひとりから見えている吉田寮

 

 

寮外生のひとりから見えている吉田寮

文責:斬(寮外生)

はじめに

 斬という名前で活動しています。今住んでいるのは四国の徳島です。私が吉田寮に関わったきっかけは、関西クィア映画祭というイベントの当日スタッフをやっていた時に、京大生のスタッフと知り合い、その方の知り合いが吉田寮生で、その寮生とも知り合いになり、親しくなって、吉田寮に遊びに行くようになった、というものです。

 その寮生の友人からこのスピーチを頼まれてから原稿の締め切りまでの2週間、悶々と過ごしました。最初にざっくり書き出しただけでも、話す量が多くなり、わりと自分の話ばかりになってしまっていました。でも、寮生と何度か関わりながらも私がどんな人か知らせることは、何かの糧になる場合もあり、知らせないのはもったいないとも思い、なんとか圧縮して話せないかを考えました。寮では実はそこまで個人の込み入った話はしてこなかった気がするし、あの寮外生は実はこんな人だったんだ、という狙いも込めて話してみたいと思います。今日は、寮外生の私は何してきた人なのか、という話、それによって今後寮生と話をするきっかけにしたいのと、寮外生から見た吉田寮というテーマでお話しようと思います。個人の情報のコントロールは必要ですが、私は今回は、意識的に私の情報を出してみようと思っています。原稿を準備しながら、話したい事、伝えたい事がたくさんあることに気づきましたが、なんとかまとめました。

セクシュアリティの話

 まずは私の話になります。私は出生時に割り当てられた性別は男性で、幼いころから大学生のころまでの間で、私自身が、トランスジェンダー女性、つまり、出生時に割り当てられた性別が男性で、女性として人生を歩みたいというあり方、であったり、ゲイ、つまり男性同性愛であったりと紆余曲折したのち、結局どちらなのかと悩んでいたところ、女性でも男性でもある、女性でも男性でもないあるいは男女の間という位置付けの意味で主に使われている、Xジェンダーという言葉を知って、これに落ち着きました。その後、Xジェンダーという言葉から徐々に距離を置くことになり、最終的には、一言で表したかったり、誰かに知らせるためのキーワードとして挙げたい場合として、クィアという言葉を使っています。クィアは、それまでセクシュアルマイノリティを侮蔑する言葉でしたが、このクィアという言葉を言われた本人が逆に名乗りとして使うことで、その侮蔑の効果を転じさせて本人をエンパワーすることを狙った言葉です。

 私はそれまでセクシュアルマイノリティという枠組みや、トランスジェンダーやXジェンダーの自覚から、自分に男性特権があることに無自覚でした。シスジェンダー、つまりトランスジェンダーではない、出生時の性別も生きようとする性別も一致している男性の話でしょ、と。しかし、そうではないんです。シスジェンダーの男性に限らず、トランスジェンダー、Xジェンダーにもかかわってくる話です。関西クィア映画祭のスタッフの会議などの活動の中で、私は自分の男性特権に向き合うことになるシーンがあったのですが、それはとてもキツイものでした。というのも、自分を男性と認めてしまう、過去これまでの自分のあり方、女性でありたかったという気持ち、いっそのこと女性男性どっちでもあるということにしようといった、悩んだ結果の生きざまを否定しかねない、という気持ちがあったからです。指摘された時はびっくりで、寝耳に水だけど、それって、本当に自分に男性特権の自覚がなかった、ということだと思います。そのとき、同じくスタッフをやっていた寮生の友人が、紙に書いて渡してくれたものがあります。「男性特権を持っている人≠男性であること」。つまり、男性特権を持っている人は、必ずしも男性であることはなく、男性ではない人が男性特権を持っている場合もあるということです。渡された当初はその書いてある意味がわからなかったんですが、家に貼って眺めてからだんだんわかるようになりました。他にも書いてくれた文章がありますが割愛します。それからもその寮生がしようとしている正義に私は触れ、その重要さを体感していきながらマジョリティであるということの自覚は逃げるべきではない、と思い、本当に徐々にですが、何年もかけて男性特権を自覚していっている状態だと、私は、自分のことを思っています。

これまでの活動の話

 私は高校まで千葉の南部の田舎に住んでいて、千葉市にある大学へ進学しました。そこで心理学を学び、カウンセラーに関わる資格やセクシュアルマイノリティに関する研究をしたいと思い、四国、徳島にある鳴門教育大学の大学院へ進学しました。ちょうど東日本大震災のあった2011年に、卒業と入学をしました。鳴門教育大学を選んだのは、臨床心理学で、セクシュアルマイノリティについての研究を扱っている教員が日本全国そこにしかいなかったためです。そこからその大学院でセクシュアルマイノリティに関するコミュニティとしてSAG徳島が発足することになり、研究もしながらセクシュアルマイノリティに関する活動を積極的にするようになりました。例えば、SAG徳島、徳島カラーフリー文化祭、関西レインボーパレード、関西クィア映画祭、愛ダホ、ツイッターの関わりで開催した各オフ会、シンポジウムや講演会、様々に活動しました。

 今では「LGBT」あるいは「LGBTQ」、「LGBTQs」などといったように呼称されていますが、私は明確に、このような呼称には反対していますし、なるべく使わないようにしています。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランス、クィア、クェスチョニングのカテゴリーの頭文字をとっただけの名称の危うさを何も感じないのか。そこに書かれていない性のあり方を軽んじているということ、結局、セクシュアルマイノリティの中でも目立ったり多いとされる性のあり方だけを取り上げてしまっていること、それはマジョリティの話でしかないこと、そこに私はいるのか、誰かは含まれているのか、そういった問題があります。なので、私はセクシュアルマイノリティという呼称を使いますし、わかる人にはクィアという言葉を使う時もあります。しかし、いまだに正解は無いと思っています。

 活動していく中、それまではセクシュアルマイノリティについての偏見、差別問題、自身や周囲の経験についてのみしか私は知りませんでした。しかし、活動をしながら知り合った人々、友だちたちとの話の中、それは吉田寮生との話も含めたものですが、セクシュアルマイノリティの他にも様々に差別と偏見の問題があることを知っていきました。女性差別問題、在日コリアンへの差別問題、被差別部落への差別問題、海外にルーツのある人々への差別問題、精神疾患、発達障がい、知的障がい、身体障がい、視覚障がい、聴覚障がい、障がい者への差別問題、被爆への差別問題、野宿者への差別問題、アイヌの人々への差別問題、沖縄の人々への差別問題、宗教と信仰への差別問題、ナイトワーカーへの差別問題、セックスワーカーへの差別問題、アレルギーを持つ人々への差別問題、ヴィーガンへの差別問題、化学物質過敏症への差別問題、まだまだ挙げきれないほどたくさん。この社会あるいは男性は女性をどう見なしていますか?、愛国主義による壮絶なヘイトを知っていますか?、生まれた土地の要素だけで就活で落とされたり付き合いを認められなかったりもすることを知っていますか?、見かけで人種や第1言語を判断できると思い込んでいませんか?、イベントの開催でバリアフリーを考える、情報保障を考える、誰がマジョリティか考えたことはありますか?、戦争や放射能汚染を考えること、なんとかして路上や公園で生きている人の場所をなぜ奪うのか?、なぜ先祖の遺骨を返してくれないのか?、基地を作って自然を破壊するのはなぜなのか?、その人にとっての必要な習慣や装いをどのように見なしているのか、誰かが言う生きる世界が違うというのはどういう意味で言っているのか、性について自分で選択するということ、食べられるものが限られるということ、その対処を知ること、生活の内部に密接に入り込んでいるものによって実際に苦しんでいる人がいるということ。そして、忘れてはならないことですが、ある差別問題に関わりながら、他の差別に加担してしまっている場合がある。つまり、ある差別問題については解決しようと取り組むものの、別の問題については差別してしまっていることがある、ということです。さらに、問題が二重三重になっていたり、人によっては2つ以上の属性でマイノリティであったり、片方の属性のコミュニティではもう片方の属性に関わる問題が軽視されていたりすることもあります。列挙したこれらは私の発想が本当につたない限りです。でも、ここまで私が、私を連れて、あるいは私と共に、いてくれた誰かと歩んできたことを思い出す限りだけでも伝えたいと思いました。全てをきちんと把握できているかというと、私はまだまだできていない自覚はありますし、私は全ては抱え切れていないと思っています。

その後から今の話

 大学院から今までについての話ですが、大学院修士の後は、1年博士浪人をして、大学院の博士課程に進みました。ただ、就活もうまくいかないし、海外で学会発表に出てみたりはするものの、査読付き論文も全然通らないし、それじゃあもう休学しておこうと、休学していました。ところが、なにやら大学側から通達がないまま休学が期日を迎えて復学状態にされてしまっていたようで、突然の授業料を支払えず、そのまま期日を待って、学籍が除籍になりました。活動内でのトラブルも出てきたり当事者をカモにして高額請求するセミナー講師が出てきたり、それを野放しにする組織やセミナー講師に対して、段ボールの立て看板を背負って死闘を繰り広げたんですが、どうにもなりませんでしたなどと色々あって、活動拠点を徳島市内に移して、知人に仕事を紹介してもらって老人ホームの清掃員として働きました。それも1年経ったぐらいからか、仕事そのものとか、パートナーとの関係性とか様々な複合的なストレスで、動悸、息切れ、冷や汗、倦怠感、完全に体が動かなくなる、という症状から、心療内科のあるクリニックを受診しました。給料も、まったく足りていなかったので、生活保護を申請して、受給開始から数ヶ月後に、仕事をやめました。ここらへんから、セクシュアルマイノリティについての活動はあまりしなくなってきました。今は回復してきたので、生活保護のまま、非常勤で出身の大学院の教務補佐員をしています。様々なマイノリティの人々が集まれる、大人の居場所としての活動にもなっている、子ども食堂のわいわいのスタッフ、わいわいでの学習支援、地域の児童館に関わることもしています。私はこんな感じの人間です。

寮に関わり始めた最初のころ

 やっとなんですが、次にここから話すのは、私が吉田寮に関わって、どんな印象や気持ちを持っていたかについてです。私が寮の友だちとの関わりの中で、その友だちからさらに別の寮生と関わるようになり、親しくなり、話すようになり、人と人を通してさらに吉田寮のことを知っていきました。最初に会った寮生は、実はお互いの印象が悪かったんじゃないかと思っています。9年ほど前、とあるセクシュアリティに関するイベントで、有志で音楽の演奏を企画したのですが、その時にその寮生が来てくれました。練習で集まった時に、吹奏楽部で指揮者の経験があった私は音楽指導的なことをしてみていたのですが、なにやら寮生の態度を見ると、不満な様子で…。私はそれを見て、どうしよう何か気に障ることをしてしまっているかもしれないと思い、何がご意見があれば…と尋ねてみたところ、そもそもの演奏のクォリティはどう求められるのか、記憶が定かでは無いですが、つまり、その指導的態度の体育会的なマッチョなやり方は本当にそれでいいのか、という指摘だったと思います。なるほどと思って、私は指導的なことはやめて、みんながそれぞれのタイミングがわかるための練習合わせるだけ合わせてみるというやり方にシフトした、記憶があります。振り返れば、それまでの私は、指揮者をやったことがあるからって一方的に指導的なやり方をする、傲慢さがあったのだと思います。その後、その寮生とは関西クィア映画祭のスタッフで再び関わるようになりました。それから寮に関わることがどんどん増えていって、その寮生とも親しくなっていきました。

 私が最初のほうで寮に遊びに来る、泊まりに来る、という時、何を思っていたか。住んでいる寮生に違和感を持たせてしまったり、不信感を持たせてしまったり、自分がお客さんになってしまう、ということを避けるために、なるべく寮のことを把握するようにして、馴染むようにして、邪魔にならないよう、もういっそあたかも寮生のふりをして、いかに溶け込むかを考えたこともありました。とにもかくにも、人が生活する場にお邪魔しているわけですから、そのことをずっと考えて、何かできることはないかと思っています。それを考えると、「寮外生」という言葉を知った時、少しほっとしました。寮生じゃないけど、寮に関わる人という意味が与えられて、そのように周囲から見なされるのは、より寮に関わりやすくなります。知らん人にも、寮外生ですと言えます。誰々の友だちで、なんじゃらで…としか言えないよりも心細くないと思います。

寮の友だちと接していて

 吉田寮生の1人と知り合い、京都大学でイベントの会議をしたり、イベントをする中、徐々に他の吉田寮生や寮外生と知り合っていきます。北部祭典で寮生がやっていた居酒屋での関わりが強く印象に残っています。吉田寮祭のどうやって思いつくのかわからないような様々な魅力的な企画、京都大学の受験日程に合わせた吉田寮紹介パンフレットの配布、そこでの当局への対応、ビラを作ったり配布したり貼ったり、タテカンや横断幕を描いたり作ったり、仮装決起に参加してみたり、鍋交流会を企画したりビラを作って貼って回ったり、吉田寮に関わっていなかったらやる機会のなかったことがとても多いです。

 楽しいことだけじゃない、というよりも、楽しいこと、それ以前にその場を作るということ自体にかなりの労力が割かれているのも知りました。例えば、寮生の友だちたちに会いに来たという時、何時から会議で何時からなら空いてて…というシーンがよくあります。寮の場でもなくても、私が自宅にいて、友だちと通話しようという時でも、会議があるから、わりと深夜から通話するということもあります。吉田寮を吉田寮として保っていくためには、それだけ時間を割いている人たちがいて、暇というわけではない、労力を費やして、場を作る時間を作っているのが私はわかりました。もちろん会議ある人、ない人もいるわけで、かなり暇にして、一緒に朝までお酒を飲みながら過ごした寮生との思い出もあります。

 吉田寮に憧れる気持ちもありますし、友だちがいるぶん、住んだら楽しそうとも思っています。ただ、そういった環境や生活のその維持のためにかなりの時間や労力を費やすこと、明らかにはっきり意見の対立する人、あるいは何かしらの感情的な側面を伴う人と共同生活をしていくこともあると思います。私にとって、精神的に、それはとても厳しく、難しいと思っています。そのこともあって、うまいこと寮外生として関わっていくことを考えています。

 人と人がお喋りをしたり、同じ場にいたり、過ごすという時、そこにある権威性に自覚的になること、上下関係や強い立場にあるのは誰なのかを意識すること、そのことを積極的に解決しようと、吉田寮生は試みている、と私は関わっていて思います。もちろん、そうでもなく、受動的な寮生もいると思いますし、私の観測範囲が一部でしかない、偏った見え方とは思います。甘んじて上下関係を受け入れてしまうことは私たちはしばしばあります。私も権威には弱くて、雰囲気や状況に合わせてしまうことがあります。が、どうにもこうにも許せないポイントはあるので、ブチっときたら、批判するところはしてきたんじゃないかなと思っています。大学の授業で教員がセクシュアリティに関する差別発言をしたらリアクションペーパーで指摘したのが2件…なのは普通かもしれないですが、大学院の寮で社会人入学者を含めて男子会をするとなった時に、その人の妻についての女性差別発言があって、それについておかしいことを指摘していたら相手が怒りを表しておしぼりを投げられた時もありました。でもそれも、おもに自分1人で対応せざるをえない時だったとは思います。

 吉田寮生が抗ってきたことについて、例えば、吉田寮自治会や寮生、寮外生の何人かで大学当局へ寮費を渡しに向かった時があります。いつも受け取ってはもらえないのですが、みんな毅然とした態度で職員へ立ち向かっていって、きちんと言うべきことを言う。別の大学ではあるものの、私が大学生の時にはそんな経験はしたことはありませんでした。でも、えらい人、と自分が思ってたり、職員だったり、教員だったりする人にも異議申し立てをしてよいのだ、ということを改めて実感しましたどんな立場の関係性でも、おかしいことはおかしいと言う、その大切さを再確認しました。

京都大学の印象

 ここからはやや視野を広げて京都大学についての話です。京都大学って頭いいところなんだな!あるいはそれと同時に権威性がある、と気づいたのは、関西クィア映画祭や、映画祭を通して吉田寮に関わってからのように記憶しています。私は千葉の南部の田舎の高校生の時、進学先ということを考えたら、周囲のクラストメイトにしても、自分にしても、だいたいは関東にある大学を考えるものでした。千葉の田舎にいるのにわざわざ他県の田舎の大学に行くのはよっぽど国公立大学で安く済ませたい場合で、私も最初に受けて落ちた国立大学に対してはそんな感じだったと思います。東京大学が一番に難しいんだろうなという印象は持っていたのですが、当時の私にとって、京都大学は地方の大学なんだなという印象だったと思います。そんな感じで、田舎とはいえ、関東しか知らない関東の人間の関東中心主義的なフィルターがかかっていて、関東以外、とくに関西の具合が見えていなかったように思います。とはいえ、進学について熱心に調べている人や難関大学を考えるとしたら、京都大学ももちろん知っていたと思います。

 京都大学の面白い友だちや知り合いを見ていて、京都大学って面白い!と思っていた時期が私にはありました。京大の時計台のところで売ってたハンドタオルを買ってはしゃいでた記憶があります。あとで寮生の友だちにいさめられました。わりと昔の話です。今思えば、うわ、当局に資金与えてもうた、とも思います。私が吉田寮に関わるにつれ、大学側が学生になんかしてきてる、なんか取り締まるようなことをしてきてる、京大生も色々いて、大学全体が一枚岩ではない、そういったことに気づいていきました。

マジョリティであること

 京大生や吉田寮生の中でも、自分がエリートであると自覚していてかつそれを自分の人生を豊かにするために使う人々もいれば、そもそも無自覚な人もいたり、自覚していてなんとかして脱するやり方はないかを考える人もいる、あるいは、それを別の権威構造の中でうまいこと機能させて、自分の弱者としての立場をなんとかしていく人もいる、ということが見えてきました。実際にそのエリート主義の部分は、寮生の友人はずっと指摘していたし、色々な角度から見て問題を洗い出していくことのやり方を知りました。自分に返って考えれば、学位による権威性は私にもあって、修士を出てるとか、除籍とはいえ博士課程にいたことがあるとか、もっとローカルには、学部としては徳島ではかなり難しいとされていると言われている鳴門教育大学の大学院を出ていることとか、いやこれは、学部と院が必ずしも同じとはまったく限らず、鳴門教育大学では院受験のほうがはるかに簡単だと思っています…。むしろ大学を出てるということそのものとか。そういったこと、そうではない人から見たらどう見えるかを想像しないといけない。さらには、属性はどうなのか。私が長男、つまり社会的に男性だからなのか、大学進学ができたのではないか、妹が高卒で働いたのは、それは本人の選択に社会的な何かが影響していないか。私が高校の時に入っていた市民吹奏楽団の帰り、楽団員たちと夜中までファミレスにいたりしてから帰ってきても親から心配されるだけで許される、という状況はなぜ可能か。母子家庭で、母親が仕事をして、家事をして、食事を作って、それらを当たり前のように当時の私は見ていてしまっていたこと。あなたや私が好きにできていること、何も気にせずにできていることについて、下駄をはいてることをマジョリティとして意識しないといけない。こういったことを考えるようになったのも、寮生の友人と一緒にいた関西クィア映画祭のスタッフをやっていた中で知っていったことからでもあるし、映画祭に関わらなくなってからでも、寮生の友人が行動してきたこと、話してくれたこと、寮として動く時に考えること、女性差別に抗うこと、権威構造を見ることその場のコミュニケーションがどうなっているのか、どうさせてしまっているのか、どうさせられてしまっているのか考えること、これらのことが強く影響しています。

 ここまで、とくに、吉田寮生のひとりに関わったことで、という話が多くなってしまいましたが、それだけ、寮生ひとりひとりに影響力はあるということだと思います。吉田寮に関わることで、私にとって気づいたことが多いということです。でもそれは一方的でもあったり、搾取にもなっているとは思うジレンマもあります。とも思う一方で、むしろそれを打破するためにも、寮外生の私の情報を色々出してみる、知ってもらう、そのことで対話や交流のきっかけになるんじゃないかとも思っています。色々と話してしまって、とっちらかってしまいましたが、私の話がみなさんの何かになればなと思います。そして、このように散らかし放り投げてみた話題から、寮生のみなさんとまた交流ができたらと思います。吉田寮は、私に限らず生きにくいと感じている人がいられる居場所にもなっていると思っています。ここまで聴いてくださって、ありがとうございました。

※本文章は、210826吉田寮現棟・食堂明渡請求訴訟第八回口頭弁論裁判報告集会でのスピーチを転載したものです。