法は法である——京都大学における最近の管理強化について

松本卓也(人間・環境学研究科准教授)

 最近の当局の一連の動きをみていると、ある特徴に気が付きます。
 それは、吉田寮の問題なら「耐震強度の問題」を、タテカンなら「景観条例」を、全学共通科目の改悪については「単位の実質化」という題目を唱えれば、すべて自分たちの思い通りに行く、と思っているところです。
 もちろん、「耐震強度の問題」も「景観条例」も、それはそれで重要なことではあるでしょう。当局の高圧的なやり方にまだ違和感を抱いていない学生や教員は、おそらくは「耐震強度の問題はたしかに問題だ」「景観条例があるのだから、法には従わなければならない」と考えて、納得しているのでしょう。つまり、「法は法である」のだから、従わなければならないのだ、というロジックです。
 しかし、当局は、そのような題目を唱えながら、実は別のことをやろうとしています。たとえば、吉田寮の問題なら「学生自治の破壊」であり、タテカンなら「物言う学生の処分」です。もちろん、そのことを当局はおおっぴらにはしません。「法は法である」という同語反復(トートロジー)によって作られた命題には、実は「余白」があり、その「余白」にこそ彼らの本音が見え隠れしているのです。
 不当な権力の行使があるところには、この「法は法だ」というロジックが必ず観察されます。たとえば、2018年、トランプ政権下のアメリカでは、「不法移民」とされる家族の親と子どもを強制的に引き離すとい前代未聞の政策がなされましたが、その際にアメリカの報道官はまさにこの「law-is-law」というレトリックをつかっていたのです。言うまでもありませんが、いくら「法は法である」としても、トランプ政権が外国人に対する差別や排外主義といった差別的なまなざしをもっているという事実は消えません。国際社会からのアメリカに向けられた非難はそのことを示しています。むしろ、「法は法だ」と自らの正当性を高らかに宣言することによって、アメリカは自分たちの本音を「余白」のなかにはっきりと滲ませているのです。
 もっとも、このようなことは、私が指摘するまでもなく、いまでは多くの学生や教員が気づきつつあることです。現に、吉田寮やタテカンの問題に関してはあまり関心を示さず、「法は法である」からしょうがない、と思っていた学生たちも、最近のNF(11月祭)に対する当局の介入にはさすがに敏感に反応しているように思います。2019年には、川添学生担当理事・副学長(当時)が、NFの準備などに関して例年の教室の利用状況が悪いことや授業時間の確保等を理由として、NFの準備時間を短縮すべきであり、準備のための泊まり込みも認めないと言ってきましたが、そのような介入にたいして「どこかおかしい」と思っている学生が多いようなのです。どこがおかしいのかと言うと、「教室の利用状況が悪い」ことは確かであるとしても、その状況を改善する方法が十分にあり、さらにはNF実行委員会も対話を求めているにもかかわらず、まったく聞く耳をもたず、「対話」を拒絶していたところでしょう。まるで、「すでに決まったことは、すでに決まったことである」のだから、「もうそれ以上話し合う余地はない」と言っているかのようです。

 NFに対する介入も、もちろん「法は法である」というロジック、つまり「授業時間の確保は規則によって決まっているので重要でないはずがない」というロジックによって正当化されています。そこにはやはり学生に対する管理を強化しようとする意図が、「余白」のなかに透けて見えているのです。
 思うに、当局はタテカン規制まででやめておけばよかったのではないでしょうか。吉田寮とタテカンを規制しているだけなら、多くの学生は「法は法である」の「余白」に気づかないでいたかもしれません。しかし、NFに対する介入によって、もはや誰の目にも、当局の手口は明らかになってしまいました。
 私たちの戦いはここからが本番です。これから、私たちに賛同する学生や教員はどんどん増えてくるはずです。連帯の輪を広げ、「法は法である」という空疎なロジックに、粘り強く抵抗していきましょう。