2023/12/19 吉田寮自治会主催シンポジウム「大学自治のいま・未来」小山哲教授(文)スピーチ

みなさん、こんばんは。文学研究科の教員の、小山です。

私は、吉田寮自治会が主催する催しでお話をするのは、これが2回目です。前回は、ちょうどいまから5年前、2018年の、今日と同じ日付、12月19日に行なわれた集会で、短いスピーチをしました。

そのときの集会は、その1年前の2017年12月19日に、大学当局が「吉田寮生の安全確保についての基本方針」を発表して、吉田寮生に「退去期限」を一方的に通告したことをふまえて、その1周年の企画として開催されたものでした。さらに、吉田寮に対する「基本方針」と同じ日に「京都大学立看板規程」が発表されており、こちらは、その翌年の5月1日から施行されました。したがって、その年の12月19日に行なわれた催しの時点で、すでに私たちは自由にタテカンを立てることはできなくなっていました。この5年前の集会のテーマは、「踊らされるな、自分で踊れ」という、すてきな言葉で表現されておりましたが、じっさいのところ、自分で思うように踊る自由は、その時点で、すでに大きく損なわれていたのです。

それから5年の時間が経過しました。残念ながら、この間に、状況はさらに悪い方向に向かって進んでいます。5年前の集会の翌年、2019年に、大学当局は、吉田寮生20名に対して民事訴訟を起こし、さらに翌20年、25名の寮生を追加で提訴しました。学びの場である大学が、学生側が求めてきた対話の道を閉ざして、そこで学ぶ学生を被告として裁判に訴えるという、悪い意味で、前代未聞の訴訟です。

 この間、京都大学だけでなく、日本の国立大学をとりまく状況も、悪い方向に変化してきたことについては、のちほど、国立大学法人法の改悪の問題にふれて、駒込さんがお話されることと思います。こういう悪い方向への変化は、2012年に第2次安倍内閣が成立して以降、顕著になってきたものです。そのときから現在まで、9人の政治家が文部科学大臣の地位についていますが、うち6人が、自民党安部派の政治家です[1]

 この人たちが文部科学行政のトップに座っていたこの10年余りのあいだに、大学の運営にかんして、だんだん使われなくなってきたのが、「大学の自治」「学問の自由」「学内民主主義」といった言葉ですが、それに反比例するように、しばしば使われるようになった、カタカナ言葉がいくつかあります。たとえば「ガヴァナンス」「コンプライアンス」「ステークホルダー」といったような言葉です。日本語で言えることを、わざわざ英語由来のカタカナを使って言うときには、なにかそこに、格好をつけたり、ごまかしたりしたいことがあるわけで、力を持っている人たちがこういう言葉を使うときには、私たちは気をつけたほうがよいのだと思います。いま起こっている自民党のパーティー券裏金問題をみれば、あの人たちに「ガヴァナンス」や「コンプライアンス」についてものを言ったり、人に指示を出したりする資格が果たしてあるのか、疑わしいかぎりです。

 しかし、残念ながら、その人たちが作った国立大学法人法の改正が、国会で成立してしまいました。いまでもすでに十分に掘り崩され、弱くなっている大学の自治が、今後ますます骨抜きにされていくことが懸念されます。

 がっかりするような成り行きですが、しかし、私たちは、ここであきらめてしまうわけにはいきません。状況がどうであろうと、大学で教え、学び、研究する私たちは、長い目でみて、意味のある教育と研究を実践していかなければならないからです。

 哲学者のイマヌエル・カントが、『永遠平和のために』という論文の最初のところで、こんなことを述べています。政治家たちは、学者が国家の問題について理論的に考察すると、政治の経験のない世間知らずの学者が理念を説いても意味がないと馬鹿にして、見下すような態度をとる。だったら、自分はますますおおいに理想を述べたい。そんなものは意味がないと政治家たちは言うのであるから、自分が学者としてどんなに大胆な理想を説いても、なにも国家にとっての危険はないはずである。こうして、カントは、権力者たちの見下すような振る舞いを逆手にとって、国家間に永遠の平和をもたらすための条件について、根本的なところから考察しました。

私たちの国の憲法は、200年以上前に書かれた、このカントの理論的な考察をふまえて、作られています。安倍政権によって、その解釈が歪められたとはいえ、憲法の前文と9条の条文はそのまま残っています。私たちが学んでいる学問は、そのように息の長いものなのです。未来の世代の人びとの存在を考えれば、現在を生きる私たちは、いま目の前の状況がよくないからと言って、自由な学問をかんたんにあきらめるわけにはいきません。カントがやったように、ときには相手の言うことを逆手にとって、使えるルールは賢く使い、抵抗するべきときにはしなやかに抵抗し、工夫しながら、したたかに生き抜いていかなければなりません。

 たとえば、さきほど挙げたカタカナ言葉のひとつ、「ステークホルダー」について考えてみましょう。経営学においては、「ステークホルダー」とは、広い意味での企業などの「利害関係者」を指します。こういうビジネス用語を使って大学の運営について語ること自体に問題を感じますが、ここでは、あえて相手の土俵にのって、大学におけるステークホルダーとは何を指すのか、考えてみましょう。国立大学、ステークホルダーで検索すると、文部科学省の資料がヒットします。そこには、こんなふうに書かれています[2]

一般的に「ステークホルダー」とは、投資や出捐を行う人を総体的に語る概念であるが、国立大学には国費が投入されており、納税者としての国民のみならず、公共財として、納税者ではない卒業生や、国際的な視点(国際連携)も取り入れていくことも重要

国の他、学生、その保護者、卒業生、共同研究等を進める企業、投資家、寄附者、地方自治体、地域の市民、国際社会など多様なステークホルダーそれぞれに対して、どのようなエンゲージメントを形成するか、相手によりエンゲージメントの在り方は異なることに留意が必要

学外のみならず、学内の教員、研究者、事務職員、学生なども内部のステークホルダーであり、それぞれのインセンティブ、モチベーションをどのように上げてエンゲージメントを行っていくべきか検討が必要

エンゲージメントのゴールとして、個々のステークホルダーの固有の利益ではなく、共同の利益を志向することが必要

つまり、学生も教員も、大学のステークホルダーなのです。「学生とのエンゲージメントの具体化に向けて」という項目のところには、こんなふうに書いてあります。

相互に責任を持つ信頼関係を構築するためには、まずは学生に対して、透明性、公平性を確保した積極的な情報提供が必要ではないか?

ということは、学生は、ステークホルダーとして、大学に対して、信頼関係を構築するために透明性、公平性をもった情報提供を要求できるし、要求するべき立場にある、ということです。

この資料のなかで、「地域の市民」が、大学のステークホルダーに含まれていることも、重要な点だと私は思います。

立て看板の問題がおこったとき、私たちは、大学内部の規制の強化の問題ととらえて、大学当局のやり方を批判しました。しかし、ふり返ってみて、そのときに欠けていた、あるいは、足りなかった点があったかもしれないと思います。それは、タテカンの問題を、大学と地域社会のかかわり方の問題としてとらえる視点です。タテカンをめぐって、私たちは、「地域の市民」と「学生」「教員」とのあいだで対話をするための努力と工夫を、もっと積み重ねるべきであったかもしれません。

京都大学のタテカンは、キャンパスの中だけでなく、大学の外壁に外に向けて立てかけるところに特徴がありましたが、その点を衝かれて、京都市の景観条例を引き合いに出して、規制されてしまいました。タテカンは、街に向けて発信する手づくりのメディアでしたが、考えてみれば、学生や教職員が一方的に、一方向的に発信していたわけで、このメディアを使って「地域の市民」とのあいだに双方向的なやりとりがあったわけではありません。「地域の市民」の側からみると、タテカンには、大学の関係者だけがもっている、ある種の特権性があったともいえます。そのことをふまえたうえで、周辺地域の市民とのあいだで、タテカンというメディアを、もっと地域社会が共有できる媒体にすることはできないか、そのためにはどのようなかたちがありうるか、対話を重ねて知恵を出し合う、そんな工夫の仕方が、ほんとうは求められていたのかもしれません。

 地域社会という観点から考えるとき、吉田寮の存在は重要だと思います。寮生には、学生という立場で大学の構成員であるだけでなく、そこで暮らしている、つまり、大学の所有する場所で生活をする地域の住民でもある、という側面があります。これは、寮生以外の学生がもっていない特性です。吉田寮自治会が、いろいろなかたちで地域のみなさんに寮の空間を開放して、市民との交流を行なってきたことは、京都大学の全体にとって、大きな意味のあることだと思います。大学の当局も、教員や学生も、吉田寮が積み重ねてきた地域社会との交流の経験の蓄積から、むしろ学ぶべき立場にあるのではないでしょうか。

 その吉田寮が、現在、民事訴訟の被告になっているわけですが、歴代の文科大臣たちとは違って、吉田寮生は、少なくともこの裁判について、発言を差し控えなければならないようなことは、なにもしていないのではないでしょうか。

吉田寮が体現しているような文化を守るために私たちが目指すべきことは、カタカナ言葉を使わなくても、表現できます。ひとりひとりの尊厳をたいせつにすること。それぞれが所属する組織や団体で自治を保つこと。そして、尊厳と自治を守るために、個人や団体が横につながりあって連帯すること。尊厳と自治と連帯、とくに現在の状況においては、連帯が重要であると、私は思います。新自由主義的な風潮のなかで、大学と大学、部局と部局、研究者同士、学生同士で互いに競争することが求められ、その結果として分断と差別化と階層化が進んでいるために、私たちは、自分自身を守るためには横につながる必要があるということを忘れがちになっているからです。

これから大学をとりまく状況はますます厳しいものになっていくでしょうけれども、うなだれることなく、顔をあげて、尊厳と自治を守り、連帯しながら、歩んでいきましょう。

どうもありがとうございました。


[1] 2012年10月~2015年10月  下村博文(安/総)

 2015年10月~2016年8月  馳浩(安)

 2016年8月~2017年8月   松野博一(安/総/五)

  2017年8月~2018年10月  林芳正 (岸)

 2018年10月~2019年9月  柴山昌彦(安)

 2019年9月~2021年10月  萩生田光一(安/五)

 2021年10月~2022年8月  末松信介(安)

2022年8月~2023年9月   永岡桂子 (岸)

 2023年9月~        盛山正仁 (岸)

 安:安部派、総:清和会事務総長、五:安部派五人衆、岸:岸田派

[2] 「国立大学の法人のエンゲージメントの在り方について」(国立大学法人の戦略的経営実現に向けた検討会議(第9回)R2.10.23)https://www.mext.go.jp/content/20201027-mxt_hojinka-000010193_3.pdf