入浴談義

酒井朋子(人文科学研究所 教員)

学生だったころ、わたしは寮に住んでいた。吉田寮より小さめの自治寮だった。当時同じ寮に住んでいた面々との間柄は、友人と呼ぶには重みと粘度のある、不思議な関係として今も思い出される。たがいの生活リズムだとか、体温やにおいみたいな身体の気配を間近に感じながらの数年間だったからだろう。

当時、寮生の中には風呂にめったに入らない人が何人かいた。そのうちの一人A氏は、大学に入るまでは当然のように毎日入浴していたそうだが、振り返るとその習慣のほうが謎だと言っていた。でも何日も洗わないと頭がかゆくなるでしょうとわたしが言うと、数日でピークをすぎて何も感じなくなる、とA氏は答えた。逆に、久しぶりに風呂に入ると体を守る膜のようなものが剥がれ落ちて肌がピリピリ痛むという。皮膚の老廃物(つまりは垢だ)が実は体を守っているというのである。

別のB氏は、毎日下着を取り替えていれば不思議と臭くもならないと言っていた。ずいぶん後になって、16世紀から18世紀までのフランスやイギリスでは貴族であっても風呂に入る習慣がほとんどなく、とにかく下着を取り替えることが清潔さのしるしだったということを知り、わたしは感心した。自宅での入浴習慣が広がっていくのは、上下水道が整備される近代以降のことにすぎない。B氏と同じような身体感覚こそが作法であり美意識であった地域と時代は、たしかにあったのだ。

もちろん、毎日欠かさず銭湯に行く、あるいはシャワーを浴びるという寮生もいた(当時その寮には浴槽機能がだめになってシャワーだけが使える浴室があった)。そんな清潔好きの一人と話したA氏が言うには、髪を洗わないでいると汚れてくるのは爪なのだそうだ。洗髪のときには指の先で頭皮や髪の毛をこするから、実はその作業で爪の汚れが落ちている。その視点はなかったな、意外なところに影響が出るんだね、とA氏は言っていた。

A氏は女性で、わたしも女性だった。二人のあいだでそういう話をする時、わたしたちは寮の外の「一般社会」で流れている「女子なのに清潔じゃないなんて」という非難じみたささやきを、うっすらイメージしながら会話していた。へりくつにも聞こえるわたしたちのやりとりには、常識の圧力だとか、理不尽な性役割を挑発してやりたいという感情も流れていたと思う。だってそれが「普通」だから、「他人へのマナー」だから、などの決まり文句で「なぜ?」という問いを封じるような、そういう押しつけとは違うところで、自分の体や人とのつきあいを見つめなおし言葉にしてみる。わたしたちが試みていたのはそういうことだったと思う。ちなみにわたしは、筋金入りの風呂ぎらいでもなければ清潔好きでもない、中途半端に薄ぎたない寮生だった。どっちつかずのそういう態度は、分析の題材としてはどうもつまらないのだった。 わたしが住んでいた当時のその寮と現在の吉田寮とでは、人との距離についても、空間や物の使いかたにしても、さまざまなところで違いがあるのかもしれない。だが重なりも大きいはずだ。入浴にかぎらず、ものを食べたり片づけたり掃除したり身だしなみを整えたり、繰り返される毎日のルーティンの多くは、とくだん話題にする必要もない瑣末な事柄のように感じられる。けれども寮のような場所で他人の別なかたちのルーティンを間近に見るがゆえに、自分の生が実は社会の圧力だとか、地域的なものの影響だとか、知らないうちに享受していた特権だとか、思いもよらぬものによって形作られてきたのだと気づくことがある。そうした意識のなかで日々の営みのディテールを、決まり文句の外であらためて言葉にしてみるとき、生活もまた新しいありかたにひらかれていく。