今起こっていること

大河内泰樹(文学研究科・教員)

 私は実はまだ吉田寮に足を踏み入れたことがありません。学生時代は東京の大学に通っていましたし、3年半前に思いがけず京大で職を持つようになるまでは、吉田寮の名前や裁判のことも聞いていましたが、どこか遠い存在でした。では、京大に来てから3年半(学生さんにとっては長い時間です)いくらでも機会はあったではないか、といわれるかもしれません。実際、いつ訪問しても歓迎してもらえるということは聞いてもいましたし、むしろ大いに興味はありました。しかし、寮生のみなさんの生活されている場所に、教員の立場でずかずか入り込むことははばかられるような気がして、逡巡している間に今日に至ってしまいました。

 というわけで、私は中を知らないので、新入生のみなさんに吉田寮への入寮をお勧めすることのできる立場にありません。ただ、私は吉田寮という存在がどんな意味を持っているのかについて、自分が勉強してきたことから多少述べることができます。そのためには京都大学、いや大学というものそのものが置かれている現状について少し述べなければなりません。

 みなさんが入学された大学は—このようなことを期待に胸を含ませた新入生に伝えなければならないということは申し訳ないのですが—今危機的な状況にあります。大学という場、そして学問は破壊されつつあります。

 大学は自治を原則とする組織です。なぜでしょうか。大学で取り組まれる学問の真理性は、それ以外の要因によってゆがめられてはならないからです。ところが常に学問は学問外の要因によって歪められる危険性を持っています。その最たるものはお金と権力です。しかもこの二つは大抵手を携えてやってきます。儲かることが学問的に正しいわけではありません。また権力に都合のいいことが真理であるわけでもありません(もちろんそうであることもあるかもしれません)。だから、学問を経済と権力が浸食しないよう、憲法によって学問の自由と大学の自治が認められているというわけです。お金と権力で歪められた学術には学術としての価値はありません。それは真理とは別の価値評価に基づいているからです。

ところが、そうした自治はもうすっかり骨抜きにされてしまいました。特に2004年の国立大学法人化以降(みなさんの通う国立大学はもはや国立ではありません)、いや実はそれ以前から大学の自治は一貫して破壊されてきました。いまは、総長に大学の権力が集中しています。そうした中、学内にあった学生の自治も破壊されることになりました。国家が大学の自治を奪ってきたように、自治を奪われた大学はその構成員による自治、とくに学生の自治を奪ってきました(今、教授会の自治も奪われてしまったことは、学生の自治の破壊を傍観してきた大学教員に対する当然のむくいなのかも知れません)。

その背後にあるのは、学術を金儲けのために動員しようとする力です。日本学術会議会員の任命拒否問題が出てきたとき盛んに言われたのは学術会議が軍事研究に反対していることでした(ちなみに京都大学も軍事研究を禁じています)。お金になるのならば、自分たちの生み出したものが人を殺そうと意に介さない人たちがいます。そうした人たちの力が大学とこの国の学術を押しつぶそうとしているのです。

 しかも、そうした一部の人たちの意思がこうした流れを支配しているというわけではありません。ここでは詳しくは触れられませんが(是非京大で勉強してみてください)、それは資本主義の持つ基本的な性質と関わっています。資本は自分の外部にあるもの、経済的価値を生み出さないものを飲み込み、経済的価値を生み出す道具にしていきます。その傾向は、この40年の新自由主義と言われる傾向の中で極端に進行してきました。京都大学が、吉田寮が直面しているのはそうした強大な力なのです。

 だから、前時代的で大仰な表現を使わせてもらえば(あるいは京都学派的な用語を政治的に反転させて言えば)、吉田寮生は「世界史的」な意義を持った戦いをたたかっているのだとも言えます。それは、新自由主義の席巻という世界史的な出来事において世界中で起きている様々な抵抗のひとつだからです。とはいえ、私はヒロイズムをあおり立てようというのではありません。吉田寮生のみなさんは、同様の戦いをやむなくたたかっている世界中の人たちと同様に決してたたかいたくてたたかっているわけではないのだと思います。ただ、権力が生活の場を破壊しようするから、自分たちの生活の場を守るためにたたかわざるを得ないのです。そしてささやかな生活の場を守ること、そこにもし正義がないとしたら一体どこに正義があるでしょうか。

 冒頭に私は吉田寮に行ったことがないと書きました。しかし私は、寮生が、そしてかつて寮生だったみなさんが、吉田寮のことをとても大切に考え、この場所を守ろうと努力されていることは知っています。決して長くはない学生生活において、そうした輪の中に加わること、生活をともにしてみることはけっして悪くない選択だと思います。