「公」と「私」をめぐる葛藤の歩み
文責:元吉田寮生(1970‐1975年在寮)高橋龍太郎
多くの人に出会い、そして、信頼しあえる関係があります。その中の一人で、今は廃業した喫茶店の店主と先日話をしていた時、彼女は「京大で吉田寮にいなければ医者になっていなかったんでないの」といいました。その夜、寝ながらふと、確かにそうだったかも知れない、でも医者にならなかったら会社員はとてもやれないし特別の才能もないし生きていくのは大変だったろうなあ、とその頃を思い浮かべました。医学部を卒業して医者になるのは当たり前のことですが、当時の私にとって「当たり前」とするには吉田寮での“成熟する時間”が必要でした。
その一例は、昨年1月に掲載された京大新聞への寄稿文で触れています(注1)。廊下のガラス窓が破損すると学生部に何度も修理の交渉に行かねばならず、そんなとき、自分で割ったわけでもないのに、との思いがよぎります。誰がやったかを見つけても割れたガラスは元に戻らないし放置すれば快適ではない、直すための交渉という役割がある以上やるだけのこと、という共同生活の中の自分の連続性を受け入れました。
もう一つのエピソードとして述べた1972年3月8日の看護学生寮ストーム(何人かの吉田寮生が酔った勢いで女子学生の寮に押しかけた)も、ある党派を中心に「女性差別事件」として糾弾され、当時自治会執行委員長だった私は責任者として矢面に立たされました。このストームという行動は、吉田寮や熊野寮の寮生によって京大女子寮や看護学生寮に対して時々行われていたようですが、私たちの中で疑問の声は上がっていませんでした。今振り返れば、身体的暴力事件まで行くことがなかったことを理由に問題にしていなかったんだと思います。
この時も、自分は加わっていないけれども寮の責任者の立場である以上他にやり様はない、と糾弾を受けました。吉田寮食堂で開かれた糾弾集会では、糾弾に立ち上がった看護学生が最初に短く私たちに抗議をし、そのあとは代わりに男性の活動家が“女性差別”や“部落差別”を追及するという展開となりました。数回の糾弾集会が開かれたのち連絡も途絶え立ち消えました。当時は、目前に迫った沖縄返還をめぐってさまざまな政治潮流が生死を賭けてぶつかり合う状況で、きっかけとなったストーム事件について私たちの中での組織だった議論は深まりませんでした。私個人では、ボーヴォワールなどの著作を読むようになり、特に、高群逸枝の「女性の歴史」や「母系制の研究」には魅力を感じました。発刊されていた「高群逸枝雑誌」も購読していました。この事件に触発され、部落解放運動に加わった寮生もいます。
このような「公」と「私」が同居し連続する生活は、「私はかくかくしかじかの者以外の何者でもあり得ない」ことを自覚し、医者になることを当たり前のことと受け入れる“成熟の時間”となりました。下宿やアパートとは異なる自治寮という時空間を共有する“場”は、その後も私の考えに影響を与え続けました。自己の有限性を自覚し主体的に生きようとする道です(注2)。
この道は、たとえば、「利己」と「利他」をめぐる議論にも深く関連していると思います。「「利他」とは何か」という最近の本でも、共感や同情に基づく「利他」への疑問が述べられ、一人の人間というものの無力に立った親鸞の「他力」思想が「利他」に近いとの指摘や、真の個人主義が真の利他主義であるという考えが書かれています(注3)。卑近な例ですが、週に1日外来をしている病院では職員食堂で昼食を食べます。一つのトレイに5,6個の副食が並べられ、その上にラップがかけられています。各自一つずつとるのですが、湯気で暖められて密着したラップから最初にとるのが手間取ります。さて取ろうとすると、棚に並んだトレイは、たいてい空になっているものかまだ一つも取られていないものです。職員の多くは、すでに誰かがラップを外したものからとっていくようです。私は、空のトレイを片付けて、新しいトレイのラップを外して一つ取ります。この時、下のトレイのラップがくっついてくるため動かす方向とゆっくりとしたスピードが大切です。他の職員は私よりも休憩時間が短いのでその程度のことはどうということはありません。でも、私が感じることはほかの人も感じているでしょうから、たまたま目の前に空のトレイがあったら片付けてもいいのになあと思ってしまいます。
言いたいことは、他の人のためというよりも、連続する日常の中でたまたま出会ったことは、その流れを断ち切る理由がない限り受け入れる、「利他」かどうかは結果的についてくることである、というものです。“Letitgo”に近いかもしれません。もし、断ち切る理由があれば、阻止に努力します。
これに関連して、当時、夜な夜な読書をしながら考えたことに「連帯」や「共生」があります。友人の倫理学者、川本隆史さんがわかりやすく記述しています(注4)。川本さんは、詩人石原吉郎のシベリア強制収容所生活での経験から共生について考察しています。極度の物不足で、食器は二人で一つ、毛布は一人一枚の生活の中、ペアを組んだ相手と食事の分配の工夫や寝かたの工夫(毛布一枚を床に敷き一枚を上に掛けて背中を押し付けあって寝る)を強いられます。石原はその経験をへて、「人間に対する不信感こそが、人間を共存させる」「無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない」と言いきります。そして、同志社大学大学祭での講演の後、学生から「じゃあ、どう生きればいいのか」と質問されると「日常生活をていねいに生きよ」と答えたそうです。川本さんは石原の詩「世界がほろびる日に」を引用しています。
世界がほろびる日に/かぜをひくな/ビールスに気をつけろ/ベランダに/ふとんを干しておけ/ガスの元栓を忘れるな/電気釜は/八時に仕掛けておけ
生活への配慮と世界滅亡が並列される観念とはどういうことなのか、どのように湧き出てくるのか、圧倒的な刺激を受けました。
その後、この二つは並列されうることを理解し始めました。具体的には、真珠湾攻撃を受けた元アメリカ軍兵士と広島で原爆の被害を受けた方々の双方から聞き取り調査をした経験や、東日本大震災後に通っている気仙沼市で津波を経験した市民の声を通じてです。ホノルル、広島の調査に基づいてケイティ・モリスさんの手によって朗読劇の台本が作られ、広島市とホノルル市の高校生などによって京都、広島、ワシントン、ホノルル、フロリダで上演されました(注5)。ある被爆者は、私たちの聞き取りのあと、爆心地近くの元安川に架かる橋を渡りながら、川の流れを見て「この川辺では、夏になると子供たちが毎日川遊びをしていたんだよね」と、ぽつんと言いました。また、2011年の震災発災後、一週間避難所に缶詰めになっていた気仙沼の保健師は、交代要員が来てようやく自宅に戻ったとき「湯船につかりたい」と、心底思ったそうです(注6)。
学部(3回生)にあがってからは、医学部自治会の活動に参加することが多くなりました。大学に入学してからはクラスの自治会委員をやっており、政治活動組織としては医学部闘争委員会(通称M闘)の一員として1971年の附属病院新病棟移転阻止闘争に加わったり、医学部自治会委員長なども経験しました(注7)。また、竹本信弘経済学部助手の処分問題などをきっかけに、文学部、経済学部、理学部、農学部、そして医学部など各学部自治会が集まって全学自治会(同学会)の再編が図られた時期にも重なります。医学部自治会では、整腸剤キノホルムによる薬害SMON病被害者を支援する活動や、労災職業病、医療機関労働運動への取り組み、精神病院改革運動などへの参加が盛んでした。当時、全国の医学部自治会の連合組織である全日本医学生連合(通称医学連)も活発に活動しており、結成二十周年記念として、細菌兵器を製造使用した731部隊のソヴィエトにおける裁判(通称ハバロフスク裁判)記録「細菌戦用兵器の準備及び使用の廉で起訴された元日本軍軍人の事件に関する公判書類(日本語版1950年発刊)」を日本医科大自治会などが中心となって1973年に復刻出版しました。よく知られているように、アメリカ軍は細菌兵器の利用を考えて、京大出身の石井四郎部隊長を含め一切不問に付しました。この復刻版は、残念ながら大きな注目を浴びることはなく、1981年、作家の森村誠一が書いた「悪魔の飽食」によって広く知られるようになりました。
私は、敵だから人体実験が許されるとした731部隊や、ガン末期を迎えた昭和天皇へのあり得ないほどの大量輸血、世界では外来治療が基本となっていたハンセン病元患者への絶対隔離生涯収容政策など日本の医学の歴史に残る「相手によって例外をおく医療」を批判します。長く関わっている高齢者医療においてもしばしば「高齢による例外」が行われますが、年齢ではなくその個人の生き方や生活状況によって医療のあり方を考える実践に腐心しています。20年以上学習院大学で「福祉」の授業の一部を受け持っていますが、リアクションペーパーという学生の感想を読むと、このような話は医療や福祉をめぐって考える材料になっているようです。
医学連では、東大や千葉大、東京医科歯科大、群馬大、長崎大、奈良県立医大、東北大、などの学生と共同で、医学生ゼミナール(通称医ゼミ)を開催したり、いくつかの大学と交流したことがあります。最終学年の医学部4回生(6年目)になるとき、単位不足で臨床実習、卒業試験が受けられない同級生がおり、卒業までに単位を取得すればいいのではないか、という要求を掲げて無期限ストライキに入りました。どの大学でも、特に医学部などでは、卒業を控えた最終学年の学生はストライキによる授業放棄へは強く反対するものですが、単独の一学年だけで半年以上のストライキを行いました。全員が留年する期限が迫った年末、同級生のT君と私がストライキ解除を提案し、ほとんどの同級生は翌年3月卒業しました。中心的活動メンバーの多くは、たぶん、今でも私たちに対する反発を感じているかもしれません。100人近い同級生が、医師になることを1年先延ばししなければならないわけで、このままそうすることはできない、との思いがありました。私は、内科学の口頭試問が不合格になって半年留年し、翌年、京都を離れました。
この過程で、30歳台で教授になったばかりのM教授やY教授など教授会メンバーと何度も話し合いを行いました。
私たちの経験には京大に残る文化も大きく影響していると思います。私は仙台市の出身で、高校時代の同期の多くは、東北大学に行きました。1972年全国に広がった学費値上げ阻止闘争の一環として東北大学でも封鎖などが行われ、多くの学生が1年間の留年を強いられました。今でも交流のある東北大学医学部出身の友人は、熱心な活動家ではなかったものの、やはり留年しました。ごく一部の学生は期末試験を受けて進級したそうです。大学側は、学生の分断を図って、深い傷跡を残したのです。当局に守られて試験を受けるかどうか、という踏み絵を作るなどあってはならないことであり、京大にその流れが来ないことを祈ります。今回の大学側による吉田寮生への提訴の過程を見ると、当時の教官との著しい違いを感じます。この違いの理由を考えなければなりません。
長くなりました。最後に、タイトルの「公」と「私」について考えていることをお話ししたいと思います。社会に生きる私たちは「私人」の面と「公的」な面を持ちます。医者という職業によって生活することは公的な生活の局面です。友人とは私人として付き合います。当たり前のようですが、この「公」と「私」のギャップにこだわります。数年前、本を読んでいて、ギリシアの哲学者ソクラテスは「公的なものと私的なものの区別を越え」「公人であることと私人であることの価値転倒」をもたらした、という記述を見つけました(注9)。ソクラテスは、自分の言動について十分反論の余地があったにもかかわらず、自ら死を受け入れ毒ニンジンをあおりました。公的な土俵の上で相撲を取ることを拒否し「私人」を貫いたと言われれば納得できます。
この背景には古代ギリシアのエーゲ海に面したイオニア地方に存在したイソノミア(無支配)にあるとの指摘があります。このイソノミア=無支配は、その後、アテネでデモクラシー(多数者支配)に変質させられたというのです。デモクラシーは公人と私人を分ける階級対立であり「私人(=自由)」でありつつ公的(=平等)であれ」というイソノミアの原理に惹きつけられます。民主主義をめぐっては、その由来、理論、未来など大きな議論が沸き起こっている現在、価値ある提案であると思います。部族主義を排し自由な意見を述べる評議会と男女平等に基づく自治区を形成しているシリアのロジャヴァでの闘いは、国家を形成せずクルド人を含む多民族で構成されており、この思想の現実化を目標としているように感じています(注10)。現在、極めて困難な状況にあると想像しますが、なんとか踏みとどまってほしいと思います。吉田寮のように、自治運営を自分たちで責任を持ちつつ担っていく共同体は、外から見ると自分たちの好きなようにやっていると思われがちですが、高度な倫理性が求められます。自らを治めることは容易ではありません。
仕事に就いて給料をもらい友人と語り合う、という当たり前のことを考え続けています。私人である私の公的な医者としての信条を最後に示します。
我々は、余計なお世話をしているかもしれない/Lessismore(建築家ミース・ファンデルローエ)
注
1)高橋龍太郎、2020、「寮生活は思想を育む」2020.1.16:2636号、京都大学新聞2)白井聡、2021、「主権者のいない国」、講談社
3)伊藤亜紗編、2021、「「利他」とは何か」、集英社新書
4)川本隆史、2008、「双書哲学塾共生から」、岩波書店
5)KathrynM.Morris. Title: DocumentaryTheatre:PedagogueandHealer. WithTheirVoicesRaised. Institution: FloridaAtlanticUniversity(URL: fau.digital.flvc.org/islandora/object/fau%3A13481)
6)東京都健康長寿医療センター編、2018、「復興を見つめて―東京都健康長寿医療センター東日本大震災被災者支援プロジェクト5年半の取り組み」、東京法規出版
7)京都大学新聞、1971、1971.2.15:1508号、(KURENAI: hdl.handle.net/2433/254378)
8)京都大学新聞、1973、1973.7.16:1622号、(KURENAI: hdl.handle.net/2433/254556)
9)『哲学の起源』を読む、atプラス15号、2013年2月号、太田出版10)M.クルナップ、他、2020、「女たちの中東ロジャヴァの革命」、青土社