エーカゲンさを確保するために
木村大治
私は最近,吉田寮関係でいろいろ発言していますが,ずっと昔から吉田寮と関わっていたわけではありません。「木村さん,吉田寮におったん?」などとよく聞かれますが,京大の学生時代には,寮食で何度か飯を食ったことぐらいしか記憶していません。
寮とかかわりを持つようになったのは,7年ほど前,全学の学生生活委員会のメンバーになり,寮担当の第3小委員会に入ったのがきっかけです。そこでは,寮と大学当局との間で結ばれる「確約」などに関していろいろと話し合いが持たれました。しかし昨今の大学当局の寮に対する「基本方針」を見ると,実際に委員会で話されていたこととはかなり違い,とにかく寮に圧力をかけ,自由にやらせないようにしようという意図のみが先行しているという印象が強いのです。そこでは,あったこと(寮と大学との話し合いの歴史)を無かったことにしようという事態さえ起こりつつあります。まるでどこかの国で最近あった出来事のようです。(このことについては,これまでいくつかの場所で意見を表明してきましたが,「木村大治 吉田寮」で検索すればいろいろ情報が出てきますので,興味のある人は見てください。) これは何かまずいぞ,と思いました。何か非常に大切なものが無くされようとしている,そういう感じがするのです。寮の問題にせよ,立て看撤去の問題にせよ,その他もろもろの大学執行部の動きにせよ。おそらく京大に関係する多くの人は,そういった感じを共有しているのではないでしょうか。
その「大切なもの」に対して,私は「エーカゲンさ」という言葉を充ててみたいと思います。ふつう,エーカゲンというとあまり良くないことなので,きちんと書くなら「攻めのエーカゲンさ」ということになるでしょうか。私は理学部4回生の時,課題研究(卒業研究)で,隠岐島の山地放牧牛の行動に関するデータを分析しました。ある程度作業が進んだとき,こんなのでいいのかと不安になり,担当教官の伊谷純一郎先生に聞きに来ました。すると伊谷先生は,こともなげに「ああ,面白かったら何でもええです」と答えられました。「何でもええです」とは,何とエーカゲンな言葉でしょうか。いまの時代,そういうことを言うとアカハラになるかもしれませんね。しかし折に触れてこの伊谷先生の言葉を思い返すと,これは実はなかなか大変なことを言われたのだな,と感じるようになってきました。というのは,「何でもええです」には「面白かったら」という限定がついているからです。「面白い」研究とはいったい何でしょうか。これは実は哲学的にも難しい問題で,おそらく明確な答えは存在しないと思います。つまり,「こういうのが面白いものだ」とか,「こうやれば必ず面白いものができる」などということをきちんと定式化することは不可能である。しかしそれでもなお,「面白い」ものはたしかに存在します。学会や世間の評価でもなく,何か実用になるということでもなく,ただ面白いか面白くないかというその一点に研究の価値を求めるというのは,実はものすごく恐ろしいことなのです。そういった,どこかに寄る辺を求めず,「何か,面白そうだ」という感覚に賭けてとりあえずやってみる,という態度を,私は「攻めのエーカゲンさ」と呼んでいるのです。
大学におけるエーカゲンさは,普通,「まあ,大学ならかまわないだろう」といった形で,「許されるもの」「そうであってもいいもの」として捉えられているでしょうが,私はそれが,「そうでなくてはならないもの」だと思っています。「これは何かまずいぞ」と,私が,そしておそらくは多くの人たちが感じているのは,昨今そういった「攻めのエーカゲンさ」がどんどん剥ぎ取られていってしまっているからでしょう。
もちろん,吉田寮にかかわる問題が(寮にとっていい方向に)解決されれば,それだけでそういった潮流が変わる,というわけでもないでしょう。しかしやはり吉田寮は,「攻めのエーカゲンさ」の依代のようなものだと私は思っています。以前,京大を志望する高校生を吉田寮に案内したことがありますが,庭を駆け回る鶏を見て唖然としていました(吉畜協[吉田寮畜産業協同組合]が育てていたものだと思いますが)。そのように,唖然とすること,笑うしかないことを堂々とやるのというは,大学に身を置くものが失ってはならない態度だと私は考えています。
この文章を読んだみなさんが,そのような考えに何かしら魅力を感じるならば,ぜひ吉田寮に入寮し,エーカゲンさを攻めていただきたいと思います。