法学研究科教員 マーフィー・マハン
(吉田寮生 訳)
京都は、日本の歴史上の首都として、常に独自の道を歩んできました。徳川幕府の下、権力の中心が移った後も、京都は大幅な自治権を保ち、江戸(現在の東京)が独占的に行使する権力を回避し続けました。17世紀、伊達政宗は鎖国(幕府による国を閉ざす政策)に背き、禁じられていた外交使節をヨーロッパに送りました。独眼竜政宗という名でも有名な彼は、仙台開府の立役者であり、徳川幕府とは不穏な関係にあったわけですが、外交団という形で180人の人びとをメキシコ、フィリピン、スペインとローマに派遣したのです。一行は多くの贈り物を携えて帰国しますが、その中にはパリで織られたゴブラン織りの絨毯が含まれていました。毎年7月には、これらの絨毯(現在では複製品)を掛けた「鶏鉾(にわとりほこ)」が、祇園祭の一環で京都の街を練り歩き、中央集権的な権力に対して自治を押し出す京都という都市の長い歴史を思い起こさせます。
私の京都研究への関心は20世紀後半が主眼ですが、そこにも江戸時代の抵抗の反響を聞き取ることができます。事実、明治時代以降、京都では独自の文化が発達してきましたが、京都が日本の他地域と比較して文化的にユニークであることを考える上で、京都大学と吉田寮の歴史は重要な一面となります。京都は、1960年代後半から70年代前半にかけての日本のカウンターカルチャー(対抗文化)のメッカであり、ビートニク(beatnik)やその他戦後世代の落伍者たちの選ぶ目的地となっていました。吉田寮をはじめとする自治・自主管理(autonomous and self-governing)機構があったために、京都大学のキャンパスは、学生やアーティスト、その他大勢の人びとが政治的な議論に参加したり、音楽を奏でたり、あるいは単にどんちゃん騒ぎや交流のできるような表現と集いの中心地となりました。大学当局との対立関係は、文化を前進させる重要な役割を果たすことは多くても、1969年の夏、学生がキャンパスにバリケードを築き警官との暴力的な衝突につながったときのように、過激な方向に進展することはまれでした。キャンパスの全面占拠という極端な状況下においても、学生たちは1969年のバリ祭(バリケード祭)といった音楽イベント・祭典を企画、開催しています。
雑誌「平凡パンチ」の1971年の特別号は、革命的な都市としての京都(文化的な意味で革命的な)、またカウンターカルチャーの首都としての京都の評判に焦点を当てた特集で、京都のキャンパス周辺は「日本のサンフランシスコ」と表現されています。これは、京都におけるカウンターカルチャーと、アメリカ合衆国でのヒッピームーブメントとのつながりを描くものでした。
日本の音楽シーンにおいて、京都大学は70年代の聖地です。アメリカのニューポート・フォーク・フェスティバルに触発される形で、木村英樹(きむらひでき:きーやん)は西部講堂(京大西部講堂:京大生協の食堂・書店ショップルネの隣にある古びた建物)において一連の音楽フェスを打ち立てます。アメリカのヒッピー/フォークムーブメントに魅了され、祭り文化を京都に持ち込もうと考えていた彼は、そのイベントをMojo Westと名付け、70年代を通して続けました。彼の最初の大きなイベントの一つが、1970年12月31日に西部講堂にて開かれた徹夜のヘビーロックフェス、「FUCK 70」と銘打たれたイベントでした。この題名が示す通り、これは毎年恒例のNHKのコンサート放送に対する抵抗イベントであると同時に、その年大阪で開かれたExpo′70(大阪万博)への批判でもありました。きーやんの働きもあり、京都大学は国内にとどまらず、国境を超えて様々なアーティストにとって重要なライブ会場となりました。彼はフランク・ザッパ、ザ・ストラングラーズ、トーキングヘッズやトム・ウェイツといったアーティストを京都に招聘します。実験演劇やラディカルな政治に関する講演、実験的なロックバンドが混在する重要な場であり続けたのです。
21世紀においても、若い人びとが自らの文化を組織し発展させるための自治空間を持つことは、依然として重要です。京都の自治の歴史的伝統は、ゴブラン織りの絨毯といった禁制の品物が行列に出てくるような京都の年間行事の暦にはっきりと見ることができますし、実際、祇園祭の文化的な価値はユネスコ無形文化遺産という形で認められています。現代のロック音楽について、京都大学のキャンパスにおける祭り文化は、常に大学当局と良好な関係でやってきたわけではありませんが、京都という都市の称えられるべき価値ある文化的遺産を創造したのです。
吉田寮は京都のカウンターカルチャーの保存と発展にとって大切な拠点でもあります。新入生、新入寮生となるみなさんが、自分ならではのやり方でこの場所に寄与してくれることを願っています。