駒込武(教育学研究科 教員)
みなさんこんにちは。教育学研究科の教員の駒込武といいます。
今日は「教員の立場で考える吉田寮問題ー吉田寮から「大学」の今を見わたす」というテーマでお話ししたいと思います。吉田寮を巡る様々な出来事の中で、今の危機的な大学の状況というのがある意味で濃縮して表れているのではないか。そういう意味でこうしたタイトルを付けました。
●教員有志として吉田寮にどう関わって来たのか
元々私は吉田寮に住んだことがある訳でもありませんし、直接的な関係はありませんでした。ただ2017年12月に京都 大学執行部が「全寮生退去せよ」と言った後、寮自治会が中心となって開いた「立て看・吉田寮問題から京大の学内管理強化を考える」というシンポジウムでお話ししました。(詳細はsites.google.com/view/tatekan-yoshidaryo/ 参照)
更に2019年2月に「吉田寮問題にかかわる教員有志緊急アピール」を発しました。これは、大学は「『寮生の安全確保』のために退去せよ」と言って いるので、寮生のみなさんが「数年前に建てられたばかりの新棟に移ってもよい」と言っている。にもかかわらず、それを認めないのはおかしいではないか。「『寮生の安全確保』が目的ならば新棟の継続利用、さしあたり現棟については、老朽化した現棟についてはどう建て直すかなど今後相談するにしても新棟の継続利用を認めるべきだ、そうじゃなきゃ筋が通らない」、という様な声明を発しました。(詳細は yoshidaryo.hatenablog.com/ 参照)
その後、残念ながら大学執行部は寮生20名の立ち退きを求めて提訴しました。これに対しては、改めて教員有志でアピールを発しました。これは一言で いうと「提訴は学問と教育の場にふさわしい対話の慣行を破壊するものである。対話によって解決すべきだ」という主旨のことを述べたものです。授業の有る昼間に裁判が開かれて、京都地裁で実際にそこで学生達が被告席に座らされるのを見て、ちょっと教員として居た堪れないというか、やっぱり非常にこれはおかしいとそう考えて、またそう考える教員は決して少なくなくて、80名ぐらいの教員が賛同をしてくれました。(詳細は seeking-dialogue.hatenablog.com/ 参照)
●なぜ教員にとっても吉田寮問題が他人事ではないのか?
一つは、吉田寮を巡る動きというのが、教授会の権限の否定と結びついているからです。吉田寮をめぐる方針は、総長や理事、あるいは部局長会議で決められたことを教授会で「報告」するだけです。「審議」の対象にもされていません。こうした教授会の権限を否定する動きと吉田寮の自治を否定する動きっていうのが同時に並行して起こっている。それから、寮自治会と大学当局の間で交わされて来た「確約書」というものを執行部は反故にした訳です。それは、確約書に署名してきた教員や職員の方々の努力も否定するものである。おかしいじゃないか。
一言でいうと、学内管理体制の強化という点で他人事ではないし、自治的空間の解体という点で共通する。吉田寮が自治寮としての性格を奪われていること。教授会から自治が奪われていくこと。更に、京都大学の自治が奪われていること。それぞれ、入れ子構造みたいになりながらどんどん自治的な空間が解体されて、「上からの命令に従え」…ただそれだけになる。説明すら為されない。そうした状況というのは、教員にとっても他人事ではないどころか、まさに私達の直面している問題でもあるわけです。
●京都大学を貫き通す新自由主義?
自治を解体して何が起きているのかというと、一言でいえば「新自由主義の原理が浸透している」のではないかと思います。川添信介前厚生補導担当副学長の見解は、「寮は『正規』学生のためのものである。『非正規』学生(研究生、科目等履修生、短期交流学生等)を受け入れるつもりはない。なぜなら『支払えるコストによって受けるサービスは違って当然だから』と言っているわけです。「新自由主義って何?」と思う人には、「支払えるコストによって受けるサービスは違って当然だから」という、これがまさに新自由主義の発想なわけです。このコストというのは凄い贅沢品とかであれば、それでも良いかも知れない。でも寮っていうのは学生の最低限の生活、更には命に関わる事な訳ですね。吉田寮は、イベントスペースとしても様々な興味深い事が行われていますが、同時に「シェルター」という言い方もあります。あるいは「自治寮であったからこそ安い家賃で済んで来たんだ」という指摘も為されています。基本的には居場所・寝所なわけですね。ですから、そこに「正規」「非正規」の区別は無い。実は、非正規学生の方が授業料免除などを申請し難かったり、経済的に困る可能性は凄く高いわけですね。だからこそそうしたいわば最低限の居場所・寝所を提供する者としては、「支払えるコストによって受けるサービスは違って当然」という言い方は、あまりにも冷たい、酷い、と思います。
新自由主義というのは、一言でいうと「優勝劣敗の原則に従って、社会保障の低下、雇用の不安定化、生活の格差拡大が増大しても当然。むしろそれを推進しようとする主義」です。「自由」っていうのは普通の人々の自由が増す訳ではありません。凄い高額所得者、あるいは資本がこれまで入って行けなかった領域にもどんどん入って行く。ベネッセが大学の入学試験で金儲けしようとか。例えばそういうのっていうのは、新自由主義な訳ですね。今まで大学の教員がやっていた事、それを充実させるのであれば、それに対するきちんとした手当をすれば良いのに「どうぞ、民間企業、入って下さい」ていう事で、その中で例えば民間の試験を何度も受けられる人と、そうでない人の差が付いていく。それも新自由主義です。
こうした新自由主義の考え方、それは政府・文部科学省からの圧力によるものでもあります。「平成30年度の監査報告」に吉田寮のことが書いてあります。文責者の「監事」という人は文部科学大臣が指名したたった2名の人なんですが、なんでその2名がそんなに大きな権限を持つのか良く解らないですが、総長に対して「ここを変えろ、あれを変えろ」という権利・権限が有るんですね。その一つとして吉田寮の問題が採り上げられています。この先程の「監査報告書」にはこんな風に書いてあります。
「月額400円という時代錯誤的な寄宿料は、到底納税者の理解を得ることはできないし、正規学生以外の入寮も許すような不適切な入寮選考は改めるべきである。安全な快適な勉学環境を提供するために、スピード感を持って問題を解決し新たな寮建設を行うことが求められる」
ですが、そもそも新棟が有るのに「新たな寮建設」って言ってるのは何故なの?良く解らない。それからこの文章、もっともらしい事を言ってるけど、よく見ると矛盾してますね。「月額400円」というのが「時代錯誤」だと言っている。「非正規学生」は排除せよと言っている。でも「経済的に貧しい学生は救え」と言っている。じゃあ、経済的に貧しくて「非正規」の学生、あるいは病気などの為に「非正規」にならざるを得なかった学生はどうなるの?そうした人達にとっては、場合によっては月額400円だって払うのが大変な場合だってある。そうした事態へのセーフティーネット=シェルターとして吉田寮が果たして来たのに「安全で快適な勉学環境の為にそれは要らない」とかって言っているのは、これは何なんだろう、と思います。まあ、あるいは邪推かも知れませんが、その吉田寮の在る土地を整備して有効利用するとかっていう事で、何か儲かる道を考えようとしているのかも知れません。そうした形での経営的な発想、そうしたものを100%否定することはできないけれど、実は、それは、セーフティーネットという観点から見れば大きな問題を孕んでいるし、学生にとっての生活する環境・学ぶ環境という点でも大きな問題を孕んでいる。
こうした形で今世界を席巻する新自由主義の風潮というものが京都大学に浸透し、吉田寮において端的に顕れてきているのだと思います。私は寮生ではないし学生でもないけれど、そうした新自由主義による社会の在り方はおかしい。そういう意味で、この吉田寮を巡る闘いというのを私なりに支援して行きたいと思っています。
※本文章は、210304 吉田寮現棟・食堂明渡請求訴訟第六回口頭弁論裁判報告集会でのスピーチを転載したものです。