自治に触れる

坂梨健太(農・教員)

新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。

これからの大学生活4年間(またそれ以上?)に期待を膨らませていることでしょう。なかには京都大学の「自由の学風」にあこがれて入学された方もいるかもしれません。

希望にあふれているところ、水をさすようで大変申し訳ないですが、このパンフレットの過去の記事をみると、多くの教員の寄稿のなかには京都大学の自由の基礎となる自治が徐々に掘り崩されている危機感があらわれています。たしかに学内で対話することもなく上から決められてしまうことも多いです。吉田寮の訴訟の件も、大学が学生との対話を最終的に拒否したようにみえます。これまで学生や教員が対話をしながら、自分たちのこと、大学のことを考え、ものごとを決めていく自治が尊重されてたきはずです。しかし、そのような対話を重視する自治が残っていると、研究を通してお金を稼ぐこと、世界ランキングをあげることがスピードをもって推進できない。よって、自治を弱めて、上で決めてしまおうという流れになっているのでしょう。

自由の基礎となる自治って、いまいちわからないなぁと思われた方(後述しますが、わたしもそうでした)。つい最近、朝日新聞の「折々のことば」の欄で、鷲田さんが「大学そのものが基本的に学生の組合であった」(ハスキンズ, C.H. 2009)という言葉をひきながら、大学について簡単な説明をしています。以下、引用。

大学は、設置者がいて理事会を構成し、校舎を建て、教師を集め、学生を募ると思われているが、最初期の大学はボローニャでもパリでも、学生もしくは教師の組合として発足したと、米国の中世史家はいう。大学は権威や権力の支配が及ばない所で知的探究をなす自治団体であり、この精神と組織は現代まで共通の「母岩」として引き継がれてきたと。『大学の起源』から。(朝日新聞 2023年12月12日)

大学は学生や教員によってつくられてきたもの。京都大学の「自由の学風」も間違いなくこの「母岩」に由来していると思います。そして、学生で運営している吉田寮も自治を体現しているのです。

と、自治についてエラそうなことを書いてみたものの、わたし自身学生のときはスポーツに夢中で、恥ずかしながら自治についてほとんど認識していませんでした。入学式のときに学部自治会が開いてくれた新入生歓迎会に参加したり、自治会が企画したイベントを楽しんだりと、実際にはそのつど学生自治の恩恵を受けていたわけです。大学院に入って、院生がつくる組織(院会)にかかわることで、ようやく自治について身をもって学んだといえます(大学院に行かなければ、スポーツを楽しんで自治のことは何も知らずに卒業・・・)。院会も当初は何のために集まっていたのかよくわかっていなかったのですが、いざ、自分たちの研究室、すなわち居場所を失う危機に直面して、院生と教員が話し合い、事務と交渉する窓口となった院会の重要性に気付かされました。交渉の結果、新しい部屋で電子レンジや冷蔵庫まで新調してもらうことになるのですが、ときには夜遅くまで院会で議論したこともあり、なかなか大変だったことを記憶しています。このように自治は時間がかかり面倒なこともあるかもしれません。しかし、集まって対話をする場をもつことは、いざというときに力を発揮するはずです。対話を基礎として、つながりたい時につながれる場が大学にどれだけあるか、それをどれだけ持とうとするかが「自由の学風」を維持できる鍵だと、自治に触れて思うようになりました。

さて、自治が息づいている(と、わたしが信じている)吉田寮。驚いたのは、わたしの研究室を訪問した数名の吉田寮生のなかで、入学して半年もしない1回生が上回生以上に吉田寮について熱く語っていたことです。彼が特異だったのかもしれませんが、日々の生活のなかで年齢や経験に関係なく対話をする場が吉田寮にあるのだなと感じた出来事でした。驚愕の価格で部屋を確保でき、仲間と対話できる環境は貴重です。ともあれ、自治がどうのこうのとか、入寮するかどうかなどは別として、まずは吉田寮の存在を知り、足を踏み入れてみませんか。自治に触れ、感じることができるはずです。