大いなる力には、大いなる責任が伴う

デ・アントーニ アンドレア(人間・環境学研究科)

私が「イタリアのヴェネツィア市出身です」と言う時、「水の都」と言われる有名な観光地を想像する人が多い。だが、ヴェネツィア市は観光地になっている島よりも広い。1970~80年代から観光化で島が住みにくい場所になった。世界中の富裕層が家を購入し、家賃も物件の価格も急上昇した。生活に必要な店舗やスーパーもなくなり、地元の店はお土産店やレストランに変わった。結果として、ヴェネツィア出身の人は島に住めなくなり、ヴェネツィア市内にある「メストレ」と呼ばれる普通の町に移動し始めた。あまりお金がない人たちは「マルゲーラ」と呼ばれる、ヨーロッパ最大の工業地帯に移動した。私はメストレで生まれたが、マルゲーラで育った。そこは労働者町なので、周りに貧困、軽い犯罪、麻薬等のような問題が沢山あった。また、そこの工場は大体化学工業関係のものだったため、環境汚染により癌の発生率も高まり、多くの人が亡くなった。私の家族は貧しくはなかったが、それでもメストレやヴェネツィアの人に自分がマルゲーラに住んでいると言うだけで、怖がられた。

そのような環境で育ったからか、若い頃から社会的な苦悩や、労働者問題、資本主義に伴う不公平、権威主義などの社会の理不尽さを肌で感じることが多かった。そして、平等性や人権について周りの人たちと多くの議論を交わした。ただ話をするだけではなく、高校生の時から時折学生運動に参加したりデモに加わったりし、カウンターカルチャーの一環としてパンクやロックなどの音楽に夢中になり、歌手としても活動したりもした。

 こんな私の自己紹介は吉田寮と関係ない話だと思われるかもしれないが、私が吉田寮や西部講堂を初めて見た時、すぐに親密な感覚を抱いた理由や、またどうして吉田寮のような場所が重要だと思っている理由の説明にもなるかもしれない。

 このパンフレットには吉田寮と京都大学の状況に関する説明、自治体の重要性、吉田寮生の役割などが豊富に記述されている。私は賛成するという立場以上に、これに付け加えることはない。恐らく、私は単に吉田寮のような面白くて独自なカウンターカルチャーの場所が好きで、健全な社会を形成するためには、そのような存在が必要だと感じているだけかもしれない。それはただの好みの問題ともいえる。吉田寮が「古臭い」、「ダサい」、「汚い」等と思う人が多くいることも理解している。私はその意見に同意しないが、日本の主流文化に慣れた人がピカピカしたものが好きになることもまた一つの好みである。それはそれとして尊重されるべきだが、そうであるならば私の好みも同様に尊重されるべきだと考えている。少数派を尊重しない民主主義と同様に、数少ないカウンターカルチャーの場所を壊し、主流に取り込むことは、単なる数の支配に過ぎない。これらの場所は経済的な利益を生み出していなくても、その多様性が人々の幸福をもたらしていることは明らかである。

 「利益」について議論するなら、吉田寮の話の中で余り注目されていない、もう一つの重要な側面があると思う。京都大学は日本の一流の大学とされている。アジア全体でも中心的な存在であり、更には世界大学ランキングでの上昇を目指している。言い換えれば、京都大学は自らをエリート大学と位置づけている。この結果、京都大学生は入試で優秀な成績を収めるエリートの若者と見なされる。私自身は大学教育が人権の一環であるため学費は無償であるべきだと考え、入試制度とエリート主義を好意的に受け取っていない。ただ、昔から日本の国家と大学が試験による人材選抜に基づく制度を好むことは理解している。そうであるならば、国や大学は少なくとも自らが選抜した学生に対しては平等な学ぶ機会とそのための生活的な余裕を与えるべきではないだろうか。学生の中には、京都に遠い地方から一人暮らししなければいけない人や、実家に頼れない事情がある人など様々な背景を持つ人がいる。国家や京都大学がエリート主義を肯定し、大学受験といった選抜を課すなら、そこを努力して潜り抜けた者への補償は、国や大学の責任だろう。しかし、大学の学費はヨーロッパの水準と比べ高く、学生への生活支援は限られている。よく使われる表現であるが「大いなる力に大いなる責任が伴う」ことを考えると、国や大学は「一流の大学」という大いなる力を持とうとしているのに、その責任をきちんと果たしていないようにみえる。吉田寮は大学のこうした責任の一端を担う役割を果たしてきたもので、それが「一流大学」を構成するものであるからには、十分に益があるものだといえる。多様性の保証といった観点だけではなく、「大いなる力」を持つものとしての責任を考えても、吉田寮の存在の重要性は確認できるのではないだろうか。