【佐藤公美教授(人間・環境学研究科) 寄稿】

ご入学、ご編入、新たなご在籍…いろいろなかたちで新しい人生の一コマを始めるみなさん、ようこそ京都大学へ。大学って素敵ですよね。私は大学という場所がとても好きで、好きが高じて教員になってしまいました。「生きる」ことの先延ばしはもうやめて、本当に好きなことや夢中になれることを勉強し、やりたいことをやる。そうやって自分自身を掴みとり、他者につながる。そんな場所として、大学は決して唯一ではないけれども、ずば抜けて大きな意味を持つでしょう。自分自身であるということは、自分自身から自分を解き放つということですよね。それを一言で言えば「自由」なのだと思います。学問の大きな魅力の一つは、新しい発見や創造で未来を切り開く力ですが、そんなことは既存の枠組みに縛られていたら決してできません。

 けれど、自由は決して、あたかも物体のように京都大学のキャンパスに転がっていたりはしません。私たちのものの見方や考え方は、常識や習慣やメインストリームメディアだけでなく、当初は「自由」だったはずの多様なメディアの言説からも知らず知らずに方向付けられています。「新しいものとはこういうもの」「クリエイティヴであるとはこういうこと」「批判的な改革はこういう方向へ向かうもの」と、創造性や批判的思考自体があっという間に枠づけられて私たちを縛る今日このごろです。心と脳に積もる塵や埃を払い、思い込みから自分を解き放つ闘いは今や全方位戦です。

 それでは「自由」って、そんな闘いに堪え切れる強靭なエネルギーや、批判も炎上もものともしない圧倒的なカリスマを持つ天才だけの特権なのでしょうか――いえいえ、すべての人が生まれながらに持つ普遍的な可能性です。だから自由を求める人は、互いの自由を尊重するからこそ、弱さを認め合い、助け合い、みんなが自由にたどり着けるよう、連帯し支え合うのです。勘の良い方は、この表現がある歴史的なイメージをなぞっていることにお気づきになったかもしれません。私はヨーロッパ中世史の研究者ですから、こんな時には思わず、中世ヨーロッパで霊的修行に生きた修道士たちのコミュニティ(の実態というよりも理念)に譬えてしまいます(修道士たちが求めたのは「神」であり、「自由」として概念化されてはいなかったけれども)。大学は決して、ばらばらの学生たちが孤独に専門知識や技能を身に着け、競合し蹴落としあう場所ではなく、同じキャンパスでともに成長する場所です。それはひょっとしたら、学問の精髄である「自由」というものが、かくも得難く厳しい闘いを要するものだからかもしれない、とふと思います。だから私たちは、集い、語り合い、笑い合い、共食し、そうすることで絶え間ない苦闘の困難を、仲間と喜びを共有しながら高く美しいものを目指す歓喜に転換し、乗り越えられるものにしているのかもしれません。場所の記憶と感情の記憶は脳内で近い場所に保存されるそうです。場所を共有し心を通わせることが思い出をつくる所以ではないでしょうか。さらに、学問には批判的思考をフル稼働する「議論」が不可欠ですが、「鋭い議論」「議論の切れ味」などと言う如く、議論はまさに刀です。慈悲なき武士が刀を振るってはならないように、学び手には論敵への敬意、誠意、友愛と連帯が必要です。そんな学びの場である大学の中には、たくさんの、学び手たちがシェアする場所があります。研究室しかり、サークルしかり。それぞれに、研究や、スポーツや、文化活動など、目的をともにする人々が集い親交を深める場所です。その中でも吉田寮は、特定の側面や機能に限られず、「暮らす」という人間の心と身体の存在そのものの根幹を、ともにつくってゆく場所です。そして、高等教育を受ける権利がすべての人に開かれたものであり、大学での学びが自由と幸福を追求する権利にとって大きな重みを持つものであるならば、その権利を享受する可能性を保障する福利厚生施設でもあります。だから数ある「場」の中でも、大学という場の最も本質的な部分を吉田寮は体現しているように思えます。

 ここまで書いてきたことは、あくまで私の省察にすぎず、現在の寮生のみなさんはお一人お一人がちがった思いかもしれません。しかし現在進行中の裁判に際しても、寮生があくまで「対話」を求め続けているという事実は、大学という場の何かとても大切なものにつながっています。対話によってのみ、私たちは、自分を相対化し、解放し、自由であり続けるために支え合うことができるからです。かく言う私は学生時代、吉田寮のおかげで勉学を続けることができ、吉田寮の自治を介して学んだことに感謝しながら大学で働き、吉田寮で得た友人たちと支え合いながら、今この社会の只中で生きています。この世に吉田寮があってよかったと、心底思っています。      

(佐藤公美 人間・環境学研究科教授)