伊勢田哲治(文学研究科教員)
元吉田寮生でもあり、現在京都大学の教員でもあるという立場から、わたしが吉田寮の現状をどうとらえているか、少しお話させていただければと思います。
わたしが1987年に京都大学に入学したとき、入学用の案内書類の中に「吉田寮は1986年3月をもって在寮期限を迎えており入寮できません」という旨の注意書きが入っていました。そんなことを言われるような場所に住む機会はもう二度とないだろうと思ったのが吉田寮に入寮することに決めた大きな動機の一つでした。あとは当時の吉田寮自治会が配布していた吉田寮新聞の入寮案内号が読み物として面白かったので、寮生の「懐の広さ」とか「センスのよさ」みたいなものを感じたというのもあったかもしれません。
この、1986年からの「在寮期限」については、われわれ当時の寮生の運動の甲斐もあってか、1989年に「終了」が京都大学によって宣言されました。当時は自分たちの運動で京都大学の決定を覆した、と思っていたわけですが、今から振り返れば、当時の教職員や寮生以外の学生たちが吉田寮の存在意義を好意的にとらえてくださったことが大きく作用したのだと思います。おかげさまで、わたしは大学院も含めて8年半を無事に吉田寮で過ごすことができました(学部生時代はほぼほぼ「ファミコン部屋」と呼ばれる部屋でゲームばかりしていましたが)。
紆余曲折をへて、わたしは2008年に京都大学に教員として戻ってきました。そのころは吉田寮自治会と大学の関係は決して悪くはなく、新棟の建設にあたっても、トイレの構造など具体的な細部に踏み込んだ生産的な議論がされていました。そのときの団体交渉はわたしも後ろの方から覗いたりはしていました。最近の大学側の主張で、「団交は理性的な議論ができないから応じられない」などと言われたりするのですが、そうなるのは話し合いの前提となる信頼関係がないからです。きちんと信頼関係を結べば団交という形態でも理性的で生産的な議論ができるというのは、ほんの10年ほど前に実際に多くの関係者が経験していたはずのことなのです。
その後、京都大学は学生の政治活動や自治に対して大きく方針を転換しました。最初は「バリスト」とよばれる教室封鎖をした学生たちへの処分がきっかけでした。それが学生への対応を全面的に「正常化」するという形でエスカレートしていき、学生と話し合いをしながら大学の運営をすすめること自体が不正常なのだとでもいうようなところまで進んでいきました。教員の立場からは、バリストで教室を封鎖されるのを放置するわけにいかないというのはまだしも理解できますが、大学の運営において学生の意見を聞くのは、的確に学生のニーズに答えるためにもむしろ必要なことに感じられます。
こうした大学の方針の変更は吉田寮にも及び、2017年12月に、第2の「在寮期限」とも言える吉田寮からの退去についての「基本方針」が京都大学から発表されました。わたしはそのときちょうど学生にまつわる問題を議論する全学の学生生活委員会という委員会の委員をつとめていたのですが、全学から集められたわれわれ委員に全くはかることなく、大学の執行部の少人数の考えで基本方針が発表されてしまいました。わたしはその委員会でいろいろ意見を言ったりもしたのですが、当時の川添理事の考えを変えることはできませんでした。ついには退去しない寮生を大学が裁判で訴え、現在に至っています。
大学と学寮をとりまく環境はわたしが学生だったころから大きく変化しており、昔ながらのおおらかな運営はできなくなりつつあるというのは教員としてわたしも常々感じるところです。とはいえ、話し合いで物事を解決するのは京都大学の基本理念の一つです。京都大学のウェブサイトに掲げられた「基本理念」の中の教育に関する項目には「対話を根幹として自学自習を促し、卓越した知の継承と創造的精神の涵養につとめる」とあります。もちろん、話し合いは単なる理念ではなく、現実的にも話し合わなければいい解決策が生まれないことはしばしばあります。
吉田寮の場合、大学が公式に掲げる退去の理由は寮の老朽化だけなので、本当にそれが理由なら対話で意見をすり合わせられないわけがないでしょう。実際、吉田寮自治会は大学側の主張を踏まえて逆提案をするなど、意見のすりあわせの努力を行ってきました。大学のような大規模な組織が一度始めたことを方針転換するのは確かに難しいのですが、この状況は少し考え直してみる余地があったはずですし、今からでも遅くはないはずです。
わたしが寮生だったころ、学内のいろいろな人たちに支えてもらって運動をしていたのと同じように、今度はわたしが微力ながら今の寮生のみなさんをサポートする側の立場になりました。京都大学が少しでも本来の基本理念に沿った形で運営されるよう、よりよい京都大学を一緒に作っていければと思います。